こっちむいてよ、せんせい


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もうひとつの終わり さよなら、せんせい





「うわ……寒っ」
 駅の建物から出ると途端に冷えた外気がまとわりついてきて、ついそんな声が出た。息を吐くと仄かに白いものが浮き上がってくる。杏奈は巻いていたマフラーに口元を埋めた。
「うわ、ほんとだ。こりゃあ、冷えるね」
 隣にいた美野里(みのり)が大げさに驚く。彼女は信じられないことに冬用の上着を着ていない。杏奈はちゃんと制服の上からダッフルコートを着込んでいるというのに。
「でしょ? だからあったかくしてこいって、今朝メールしたのに。あんた見てると、こっちまでもっと寒くなりそうなんだけど」
「えへへ、ごめん。まだしばらくは大丈夫かなって思ってさ」
 彼女ははにかんだ笑みを見せる。ショートカットで童顔な彼女は、そうすると少年のようにも見えた。ズキン、と不意に心が鋭く痛む。
(やっぱり思い出しちゃうな……あの人のこと)
 美野里と親しくなったきっかけも、初めて彼女を見かけたとき似ていると感じて声を掛けたからだった。高校に入学してすぐのことだ。
 今年の春から、杏奈は高校生になった。セーラー服ではなく、今着ている学校の制服は美野里のものと同じライトブラウンのブレザーだ。可愛いデザインで、その辺りはお気に入りのポイントだった。
「……杏奈?」
 我に返ると、美野里がじっと正面からこちらの顔をのぞき込んでいた。
「ごめん。ぼうっとしちゃって」
「そっか。……杏奈ってさ、時々わたしのこと見て、そういう顔するよね」
 白いため息を吐いて、彼女は言う。
「……そういうって?」
「何か、わたしじゃなくて、どっか遠くのもの見てるみたいなさ。寂しそうな顔」
 ぎくっとした。気づいていたらしい。彼女は普段の天真爛漫さとは別に、人のことをよく見ていて鋭いところがある。
(別に美野里を、あの人の代わりにしているつもりはないけど……)
 それでも気がついたときには彼女にあの人を重ねていることもあって、そんな自分に嫌気が差していた。まだ、忘れることができていないのだ。
「……ごめん」
 謝るしかない。彼女に対してごまかすことはあまりしたくなかった。
「いいけどさ、別に。……でもわたしのこと、ちゃんと見ないと、やだよ?」
 少し声に甘えを含ませて、美野里は杏奈の手を掴んできた。ふてくれたように口を尖らせているが、彼女の顔は少し赤らんでいる。
 杏奈は笑いかける。
「大丈夫。ちゃんと美野里のこと、好きだよ」
 そう言ってやると今度ははっきりと彼女の顔が赤く色づいた。
「こ、こんなとこで言わなくても。わ、わたしだってちゃんと知ってるよ、それくらい」
 ほら、行くよ、と彼女は照れ隠しなのか先に歩いていってしまう。繋いだ手を引かれながら、杏奈も歩きだした。今日は学校が終わってすぐに街中でデートをしようと約束していたのだ。
 美野里と付き合い始めてから、もう半年ほどになる。
(……透子せんせい)
 歩きながら一度だけ、その名前を心の中で呼んだ。
 あれから透子は、突然学校を辞めた。
 前触れもなくいきなり辞表を出したらしい、と聞いた。特に何の挨拶もなく、彼女は忽然と姿を消してしまったのだ。クラスメイトたちは男と駆け落ちしたのだとか、あらぬ噂を立てていた。
 透子は杏奈にさえ何も伝えてくれなかった。結局一言も口を利くことなく、いなくなってしまったのだ。だがそれは自分が彼女を避けていたからだと、杏奈は気づいている。
 何も言わない方がいい。彼女はそう判断し、黙ってどこかへ行ったのだろう。
 それから中学を卒業した杏奈は地元から遠く離れた都会の高校に入り、付属の寮で暮らしている。最初のうちはなかなか生活に慣れなかったが、後悔はしていなかった。こうして、美野里とも出会うことができたのだ。
 透子が詩織と一緒になったのかどうか。それはわからない。もしかしたら一人でいなくなったのかもしれない。だがそれを知るすべは、最早杏奈にはなかった。
(もう、あたしいつまで昔のこと、うじうじ考えてんだろ……)
 小さく首を振るい、繋いでいる美野里の手を強く握りしめる。すると振り返った彼女が嬉しそうに笑うので、胸が不意に高鳴った。ちゃんと自分は、彼女に恋をしているのだ。
「じゃあ、杏奈。どこ行こっか。どっか目的とかある?」
「あたしが決めていいの? それならこの近くの服屋でセールやってるらしくて……」
 言っている最中に、見覚えのある人影が目の端を通り過ぎた。
 立ち止まって、振り返った。人混みの中に、すらりと背の高い、記憶の中よりも髪の伸びたあの後ろ姿があった。
 彼女だとすぐに確信した。連れはいないらしく、一人のようだ。
 一瞬だけ、迷う。だが追いかけることはしなかった。じっとその背中を見送ってから、美野里の方を向き直った。
「杏奈、どうかしたの?」
 不思議そうに美野里が尋ねてくる。
「……ううん、何でもない。それよりほら、行こうよ」
 再び歩き出す。杏奈にはもう、自分なりの新しい世界がある。それはきっと、彼女も同じだろう。自分たちはそれぞれ、別々の道を進み始めている。
 そしてその道が交わることは、これから先ずっとないのだろう。
 それでいい、と思った。もう二人の関係は、とっくの昔に終わりを告げているのだから。
(……さよなら、せんせい)
 彼女がどうか幸せであるようにと、杏奈は寒空に向かって密かに祈るのだった。



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