ブローカーズ・キーパー(悪魔のリドル/兎晴)
6.東兎角は聞き、一ノ瀬晴は話す
水の流れる音が、断続的に聞こえている。晴がシャワーを浴びているのだ。
兎角は彼女のシルエットが映る浴室の扉を背に、銃の手入れをしていた。分解し、バラバラになった部品を丁寧に磨いていく。
兎角たちが今いるのは郊外に放置されたビルだ。七階建てのここは持ち主が夜逃げし、買い手もつかないまま野ざらしにされていた。事情付きで破格の値段だったそれを兎角が秘密裏に買い取って隠れ家にしたのだ。今いる部屋はベッドやシャワールームがあり、なおかつ建物内にある監視カメラのモニターも設置されている警備室だった。
ここのことは誰にも口外していないから、今晩くらいは隠れていられるだろう。
(しかしその次は? 一体どこへ向かう?)
銃を組み立てながら兎角は思う。飛行機に乗って国外に逃げるという手もある。しかし道中で捕まるか、空港で取り押さえられるのが関の山だ。
(逃げるだけで、本当にいいのか……?)
組み立て終わった銃のスライドを引き、壁に向かって構える。自分はまだ何も知らない。晴のことを。彼女が何故ブローカーとなり、追われるようになったのか。
シャワーが止まり、背後の扉が開く音がした。晴が上がったようだ。
「上がったか。ドライヤーは近くの棚の中に入ってる。好きに使っていいぞ」
後ろでもぞもぞと動く気配があったかと思うと、背中から抱きしめられていた。驚く。彼女は下着しか身につけていない状態だった。
「兎角さん、ありがとう。もし今日兎角さんと出会えていなかったら、晴はとっくに殺されていたかもしれない」
間近で囁かれる言葉。晴の手が兎角の手をとる。
「ねえ。どうして晴に、ここまでよくしてくれるの……?」
晴の手に力が入る。兎角はゆっくりと口を開いた。
「……さっきも言ったが、そうしなければならないと思っただけだ」
「……本当に、それだけ?」
問われる。彼女はそれなりの覚悟で尋ねているのだろう。ならば、答えなければいけない。
だが、その前に。兎角は晴の腕を解いて彼女と向き合った。
「服を着ろ。そのままだと風邪を引くぞ」
「あ、そうだね……」
晴が服を着た後、兎角は椅子に座ったままあのときの心境を話した。
もともと表沙汰にできない家系の兎角は、そのまま警察の裏機関に入ったこと。それは正しいことを求めていたからで、入ってからの汚い仕事に疑問を感じていたこと。
そこに、晴が現れた。兎角にはどうしても、晴が危険人物とは思えなかった。
根拠も証拠もない。ただ、心が訴え掛けてきたのだ。このままでいいのか、と。みすみす晴を見捨ててもいいものかと。
だから決めた。晴を逃がす。それがずっと感じていた疑問への、兎角なりの答えだったのだ。
「……だからこれは私の問題で、お前がどうこうと言う訳じゃない。気に病む必要もない」
最後にそう結んだ。そう、これは兎角の問題だ。そしてそれはまだ続いている。答えの後には、次の問いが生まれるのだ。
押し黙って聞いていた晴は、かぶりを振った。
「ううん。やっぱりそれは晴の問題でもあるよ。改めてお礼を言うね。ありがとう、兎角さん」
彼女は深々と頭を下げた。そんなことはされ慣れていないから、兎角は何となくいたたまれない気持ちになる。
顔を上げた晴は、まっすぐに兎角を見た。
「兎角さん。実は晴、前に研究所のようなところに入れられていたの」
「……研究所?」
「うん、そう」
そうして彼女は語り始める。ブローカーというレッテルを貼られ歩んできた道のことを。
「晴の家族もね、裏の仕事をする人たちだったの。特殊工作とか、スパイ活動とかする人。でもあの人たちは晴には普通の人間として生きて欲しいって言ってくれた。だから晴たちは、普通の家族として暮らしていたんだ」
楽しかった、と彼女は言った。普通の家族としての幸せな毎日。しかし、不穏は突然訪れる。日常から、非日常へ。
「ある日ね、いきなり手が光りだして――気づいたら、拳銃が手の中にあったの。まるで最初からそこにあったみたいに」
ブローカーとしての、晴の始まり。両親は困惑していたが何も気にしなくていいと言っていた。いつも通り過ごしていれば何も心配はない。
しかし、やはり日常は壊された。
「突然家に、銃を持った男の人たちがやってきたの。多分、軍の人たちだと思う。そしてお父さんとお母さんを押し退けて、晴を、無理矢理連れ出した」
そうして彼女は、最初に言った研究所のようなところに連れていかれ、監禁されたらしい。
そこでの日々は地獄だった。研究と称して白衣の男たちに意図的に痛みを与えられ、どのような課程で武器が生み出されるのかを徹底的に実験されたらしい。
「これは、その時の傷だよ」
彼女は着ていた服をはだけさせた。むき出しの体にはびっしりと傷跡が植え付けられていた。刃物傷、打撲痕、ひっかき傷。弾痕まである。いかにひどい扱いを受けてきたのかよくわかった。
「晴はもう、ここで死んじゃうんだって思った。もう二度と、普通の人間には戻れないんだって」
しかし、彼女は死ななかった。家族が、助けに来たのだ。
研究所を襲撃し、晴を連れ出した。これで再び誰にも邪魔をされないで、家族として一からやり直すことができる。
だが、それさえも叶わなかった。素早く到着していた軍の連中が、晴の両親を襲った。
「お父さんもお母さんも、銃を向けられても必死に晴に呼びかけてた。晴、逃げなさい、しっかり生きるんだって。覚えてるのは、そこまでかな……」
それから両親から受け取った金で色々なところを転々としていたらしいが、時には追っ手に見つかって何度も殺されそうになったらしい。それが世間で認知されているブローカー無差別殺人だ。
そして今晴は、兎角の目の前にいる。
軍の連中がどうして晴を執拗に追うのかよくわかった。捕らえてまた実験するつもりなのだ。しかし他の者の手に渡れば厄介な存在になるから、それならばいっそ殺してしまおうという魂胆に違いない。警察は軍の犬と化している。
話し終えた彼女は目の端に薄く涙を浮かべていた。兎角はじっとしていられず、震えている彼女の手を握りしめた。
「……よく、話してくれた。辛かったな」
「兎角、さん……」
「もう一人じゃない。これからは私も一緒だ」
本当のことを言えば、兎角は少し迷っていた。自分は正しかったのか。巧妙に隠しているだけで、晴は悪人ではないのか。
だが実際に行動を共にして、そして今の話を聞いて、迷いはなくなった。
晴を守る。それが兎角の求めた正義だ。
「兎角さん……!」
立ち上がった晴が再び抱きついてくる。快くそれを迎え入れた。か細い体。今まで彼女はこんな身一つで逃げ延びてきたのだ。
いや、逃げるのも今日までだ。兎角は決めた。
「……なあ、一ノ瀬。酷な話かもしれないが、次はその研究所に行ってみないか」
「えっ。ど、どうして?」
「そこでお前に関するもっと詳しい情報が得られるかもしれない。上手くいけばブローカーとして覚醒した理由もわかるだろう。そうすればこれから私たちが取るべき方針も決まるはずだ。……心配はいらない、私がいる。お前を誰の手にも渡したりはしないよ」
逃げるのではなく、これから進むのだ。兎角は力強くそう言い切った。きょとんとしていた晴の顔にも、みるみると生気が宿っていく。
「そうだね。うん、わかった! 進むために、だね!」
よしやるぞ! と腕を振りあげた晴だったが、途端にふらついた。慌てて支えてやる。
「一ノ瀬? 大丈夫か?」
「ううん、ごめんなさい……」
彼女の瞼はほとんど閉じかかっていた。疲れているのだろう。無理もない。今日は本当に散々な目に遭ってきた。
「無理するな。もう休むんだ」
「うん、ごめんなさい。……お先に、失礼させてもらうね」
組立ベッドの上に倒れ込むと、さっそく晴は寝息を立て始めた。
彼女の寝付きのよさに苦笑しながら、兎角はシャワーを浴びるため浴室に入っていった。