ブローカーズ・キーパー(悪魔のリドル/兎晴)


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4.東兎角と一ノ瀬晴は危機を迎える





 軍はさすがに逃げられるとは思っていなかったらしい。しばらく走っていると普通の街の情景が戻ってきた。歩道を通行人が談話しながら歩き、車は暢気に信号待ちをしている。先ほどの死闘がまるで夢のようだった。
 人々はいつも通りの日常を送っているようで、兎角たちには見向きもしない。まさか指名手配犯が混じり込んでいるとは思っていないのだろう。それ幸いと兎角たちはバイクを乗り捨て、群衆の中に紛れ込んでいた。
「何か、変な感じだね……」
 横に並んで歩いている晴が独り言のように呟く。
「さっきまでずっと命を狙われてたのに、今はここに溶け込んでる。違う世界に来ちゃったみたい」
 どうやら彼女も同じことを考えていたようだ。兎角は頷いた。
「そうだな。だがどちらも同じ世界の出来事だ。日常と非日常の境界は、実はそこまで明確じゃないのかもしれない」
「どういうこと? 兎角さん」
「簡単にどちら側にもなりえるということだ。非日常というのは予告もなしに唐突に現れるものなんだろうな」
(そう。私にとっての非日常は、正に一ノ瀬晴そのものに他ならない)
 晴と出会い、警察機関を裏切って彼女と行動することを決め、今兎角はこうしてここにいる。不変の世界の急激な変貌。昨日までは考えもしなかった。
「……兎角さん。ごめんなさい」
 俯いた晴が弱々しい声でそう言った。兎角は首を傾げる。
「ん? どうして謝るんだ」
「だって晴のせいで、今兎角さんは……」
 ああ、そのことか、と兎角は気づく。
「気にするな。私はお前に巻き込まれたんじゃない。自ら飛び込んだんだ。お前は悪くないよ」
 日常の自分に不満を抱いていた兎角は、遅かれ早かれ非日常の世界へ誘われていたに違いない。そのきっかけがたまたま、晴だったというだけだ。
 ふと晴を見ると、嬉しそうに微笑んでいた。だらしなく口元が緩んでいる。
「……なんだ。気持ち悪いな」
「ごめんなさい、何か嬉しくて。……ありがとう、兎角さん」
 まっすぐにお礼を言われると何だか照れくさくなってきた。兎角は足を早める。
「……いいから、さっさと行くぞ」
「うん、わかった……」
 ふと、どこからかざわめきが起こり始めた。どことなく不安そうな声がいくつも入り交じっている。
「と、兎角さん……?」
「しっ。静かに」
 兎角たちは立ち止まって身構えた。不穏な空気が辺りに充満している。太陽が雲間に隠れたような感じだ。
 耳を澄ますと、微かに金属質な機械音とエンジンの音が近づいてくるのがわかる。一体何だ。警察車両や軍のトラックなどではなかった。
 そしてそれは、姿を現した。
 迷彩のペイントが施された屈強な車体。六つ並んだ分厚いタイヤは動く度空気を震わせる。車と言うよりは、巨大な動物を連想させる姿。
 装甲車だった。
 少し遠くにいるそれはルーフの真ん中、出っ張った部分に付けられたアンテナのようなものを回転させ、先端をこちらに向けた。――機関銃だとすぐに気づく。
「一ノ瀬! 走れッ!」
 晴の手を掴み駆け出す。ドドドドドッ、と内臓を抉るような重低音が響きわたった。
 悲鳴、悲鳴、悲鳴。突然の出来事に逃げ惑ったり、動けないでいたりする人の波を縫って兎角たちはひたすらに走った。すぐ近くに立っていたスーツ姿の男が機関銃の弾を受け粉々に砕け散った。肉片が辺りに飛び散る。全身から血の気が引いていくのを感じた。
 民間人がいる前では、軍も警察も無茶な真似はしないだろうと思っていた。甘かった。……彼らは本気で、一ノ瀬晴を抹殺するつもりなのだ。
 おそらくブローカーが起こしたとされる無差別殺人も、奴らの仕業に違いない。例え目撃されたとしてもブローカーの仕業だと言い張ればいい。そうやって印象操作を計り、ますます晴を孤立させていく。連中がやりそうなことだった。
 平和だった街はあっと言う間に地獄絵図に変わる。無くなった足を押さえて呻く男、紙屑のように散らばった恋人を前に泣き叫ぶ女、ちぎれた親の腕を握りしめぼんやりとした子供。非日常が、日常を踏みにじった。
「こっちだ!」
 兎角は少し狭い通りに入った。今までで一番強く死を間近に感じている。心臓が波打ち、意識が混濁する。
 晴の目も焦点を失っていた。恐怖、驚き、絶望。負の感情を全て表している。きっと兎角も同じようなものだろう。
 機械音が追いかけてきた。後ろを向くと装甲車が止まって通りの入り口からこちらをのぞき込んでいる。機関銃の眼光が兎角たちを捉えた。
 ――死。
 兎角は思わず目をつぶりそうになる。
 しかし突然、装甲車は吹き飛んだ。爆発したのだ。焼け焦げて煙を上げたそれは沈黙し、ぴくりとも動かなくなった。
「な、何だ?」
 思わず兎角たちは立ち止まった。何が起きているのかわからなかった。まさかひとりでに爆発するわけもない。
「た、助かったの……?」
 半ば放心気味の晴。助かったのだろうか。それさえもよくわからない。
 通りの向こう側で、黒塗りのリムジンが乱暴に止まった。後部座席のドアが開き、金色の髪の少女が姿を現す。
「一ノ瀬晴さんと、東兎角さんっスよね? 乗ってくれっス」
 突然の送迎車。しかもこちらの名前を知っている。不審に思わない方がおかしい。
「……どういうことだ。お前ら何者だ?」
「死にたくないなら、さっさと乗った方がいいと思うっスよぉ?」
 慌ただしい足音が一斉に後ろから迫ってきている。軍の兵士だ。
(選択の余地は……ないか)
「一ノ瀬、乗るぞ」
「えっ、でも……」
「はーい、二名様ごあんなーい」
 兎角たちが乗り込むと同時に、リムジンは急発進した。


「……説明してもらおうか」
 広い車中で、兎角たちは突然現れた謎の少女と向かい合っていた。運転席の方にはスモークガラスが張られ、見えなくなっている。どうやら目の前の人物と話をするしかないらしい。
「まあまあ、そんなに急かないで。ウチは走り鳰って言うっス。鳰っていうのは入るに鳥って書いて……」
「お前の名前なんてどうでもいい。一体何故私たちを助けたんだ? さっきの爆発も仕組んだんだな」
 装甲車の爆発の後、タイミング良く現れたのはそういうことだろう。
 正直言って兎角は今置かれている状況に困惑していた。晴もそのようで落ち着かなそうにきょろきょろとしている。まさか助けが入るとは思わなかったのだ。
「せっかく名乗ったんだから覚えてくださいよぉ。こっちもお二人のことは把握済みなんスから」
 走り鳰という少女は少し含みのある笑みを浮かべた。それから手に持っていたタッチパネル式の端末をいじり始める。
「東兎角さん。ほうほう。警察の裏機関で色々とご活躍されてたみたいっスね。成績も優秀だったみたいだし、ここまで生き抜いてこられたのも納得っス」
「……何故知ってる」
「ちゃんと調べたっスから」
 親指を立てておどけたポーズをとる鳰。喰えない奴だな、と兎角は不信感を募らせる。
 兎角の素性は機密扱いのはずだ。おそらく今の追っ手たちも、兎角をただの警官だった人間としか認識していないだろう。そんな情報を調べ上げられる力がある、ということか。
「お前らは何者だ? 私たちの敵か? 味方か?」
 じっと目の前の彼女を睨み付ける。こいつも何らかの組織に属しているのだろう。
「ウチらは敵でも味方でもないっスよ。強いて言うなら中立的な立場、とでも言っておきましょうか」
 ただ、と鳰は続け、視線を晴に向けた。晴がびくっと体を竦める。
「お二人が軍や警察の馬鹿共に殺されたり、拘束されたりしたら困るってだけっス。――とくに、ブローカーである一ノ瀬晴さんはね」
 ブローカー、という部分を鳰は強調した。
「一ノ瀬をどうするつもりだ?」
 身を乗り出して警戒心を強める兎角に、鳰はあっけからんと言った。
「別にどうも。今も適当なところで下ろすんで、その後はお好きにどうぞ」
「ど、どういうことですか?」
 晴が思わずといった様子で言った。兎角も同じ心境である。
 てっきり兎角をお役目御免とし、そのまま晴を自分たちの監視下で保護するものだと思っていた。ますます訳がわからない。
 にやり、と鳰が口元を歪める。
「前述の通り、ウチらはお二人の敵でも味方でもない。ただ死なれては困るっスから、本当に危ないときは手を貸しますが、それ以外は一切干渉する気はないっス。ドゥーユーアンダスタン?」
 兎角と晴は黙り込んだ。理解できるはずがない。鳰たちの目的がさっぱり見えてこないのだ。これ以上やりとりしたところで、明確な答えも返ってこないだろう。
(……だが、こいつらを信用できないのは確かだ)
 そう思う。鳰からはどこか陰のある湿ったような匂いがするのだ。裏社会に携わる者の纏う空気だと、兎角は気づいていた。故に彼女の言う言葉全てを鵜呑みにはできない。
 やがてリムジンはあまり人気のない場所で止まった。辺りにはほとんど建物の姿も見られない。兎角の隠れ家の近くなのは、おそらく偶然ではないだろう。
「これ、持っていてくださいっス。時折連絡よこすんで」
 車から降りるときに、鳰が折り畳み式の携帯電話を渡してきた。眉を顰める兎角に彼女は「足がつかないように改造してあるから大丈夫っスよぉ」と笑った。信じたわけではないが一応受け取っておく。自分のは晴と逃げる時に捨ててきたので丁度いい。
「注意してくださいね。晴ちゃんを追ってるのは、軍や警察の連中だけじゃないっスから。むしろ、そっちの方がタチの悪い輩っス」
 最後に意味深な忠告を残して、鳰は走り去っていった。
「……どういう意味、かな」
 不安そうな表情になる晴。兎角は首を振るった。
「……わからない。とにかく急ごう。身を隠せる場所はすぐ傍だ」
 兎角はしっかりと晴の手を握りしめ、歩き出す。
 胸に宿った嫌な予感はまだ消えていなかった。
(これ以上、何か起こるというのか……?)
 見上げた空は一面、濃い紅色に染まっている。まるで人の体から流れ落ちた血のようで、何とも不気味な眺めだった。



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