咲-saki-


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白い炎、赤い光

赤い光【後編】

シロ塞




 私は初め塞のことを、別にどうとも思っていなかった。
 高校の入学式からしばらく過ぎて、周りの人たちはあっという間に学校になじみ始めていた。塞もそうだった。そう、彼女は私にとって、不特定多数のクラスメイトの一人に過ぎなかったのだ。
 ある日のことである。授業合間の休み時間、賑やかな教室の中でぼうっとしていた私の耳が、こんな会話をキャッチした。
「えっ、塞、麻雀部入ったんだ」
「まあ、ほら。実は私、麻雀結構好きなんだよね」
「じゃあ、将来的に全国大会とか出ちゃう感じ? 一躍時の人だね」
「さすがにそこまでは行かないと思うけどなー。部員、足りないし」
 そう言いつつも照れくさそうに頬を掻いているのが、塞だった。へえ、この人麻雀やるのか、と私は勝手ながら意外に思っていた。彼女の第一印象は生真面目一直線といった感じで、とても麻雀をやるような人には見えなかったのだ。
 それから、何となしに彼女のことを意識するようになった。
 私が密かに麻雀を愛好していたということもあるし、この学校の麻雀部に興味もあった。私は随分前から打っていなかったので、久々に打ちたいという気持ちもあったのだろう。
 でも今思えば、私は麻雀に熱中している、塞という人間が気になっていたのかもしれない。
 友達と何気なく話す彼女、日直の仕事を抜かりなくこなす彼女、授業中はきっちりとノートをとる彼女。私とは正反対なそんな彼女が、麻雀という共通点を持っているのがその理由の一つだった。
 知りたい、と思った。麻雀をしている時の彼女を。学校で同じ教室にいるだけでは到底知り得ない、もう一つの顔を。
 本来なら真っ先に声をかけてみるのが筋というものだけれど、私は自分から動くことがどうしてもできないタチだった。しかし、きっかけというものは唐突に目の前に落ちて来るものだ。
 私の場合それは、麻雀の雑誌だった。
 同じ麻雀部の友達に呼ばれて慌てて駆けだした彼女が、鞄からぽろりと落としたもの。頭で考えるより先に立ち上がり、私はそれを拾っていた。
 振り返った彼女が私を見て驚いた顔をした時、私は胸の鼓動がいつになく騒いでいるのに気づいた。そうか、私はずっと、彼女とこうやって向き合いたかったのだ。
「臼沢さん……だったっけ」
「そ、そうだけど」
「麻雀、やるんだ」
 彼女の名前も、麻雀が好きなことも、全部知っていた。でも私は、あえて今知ったようなふりをした。
 彼女と同じスタートラインに立ちたい。そう思ったからかもしれない。


 塞が、学校を休んだ。
 月曜になって、私はある程度の覚悟を決めて学校に出てきたのだが、肝心の塞の席は空になっていた。三年間、無遅刻無欠席で皆勤賞を狙っていたはずなのに、彼女らしくなかった。
「珍しいねー、塞が休みなんてさー」
 豊音が言う。朝のホームルームが始まる前に、私たちは麻雀部の部室に集まっていた。
「テスト前ナノニ、塞、ダイジョブカナ」
 エイスリンが心配そうに呟くのに対し、塞と付き合いの長い胡桃はため息をついた。
「あの子、変なところで急に気が抜けて体調崩したりするから。後でメールしてみるわ」
 私は塞の欠席について何もコメントしなかった。彼女が学校に来ない理由が、私であることを知っていたからだ。
 先週末。部活を終えて、塞と二人きりでの帰り道。彼女は柄にもなく、「テスト勉強を教えてあげようか」と言ってきた。
 不思議には思ったが、特に予定もないので私は彼女の家で一緒に勉強をすることになった。
 だけど、と思う。まさか塞にキスをされるとは、夢にも思っていなかった。
 横になっているうちに眠ってしまった私は、目覚めて塞の顔が目の前にあったときに、夢でも見ているのだろうと思った。だけど唇を包み込むような柔らかな感触は、それが夢でないことを裏付けていたのだ。
 塞に、キスをされている。そう実感した瞬間、私は頭の中で芯が切れるような音を聞いた気がした。
 そこから、記憶は曖昧だった。でも、塞の弾力のある肌が、ほとぼしるほど熱い体温が、そして彼女の何かに耐えるような表情が、脳裏に焼き付いている。私と彼女が何をしたのかは、明白だった。
 私は塞と……セックス、してしまった。
「シロ……?」
 エイスリンが怪訝そうに私を覗き込んでいる。
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
 私がそう言うのと同時に、チャイムが鳴った。朝のホームルームの合図だ。
「とにかく、放課後もみんなここに来てね。インターハイの準備、するから」
 そう言って胡桃が立ち上がる。その場はとりあえず解散という運びになった。


 授業は、いつも以上に頭に入ってこなかった。そもそも、入るスペースがないくらい私の思考はいっぱいいっぱいになってしまっている。思い浮かぶのは、塞のことばかりだった。

 着ていた服を、普段通りの装いを全て脱ぎ捨てた塞は、いじらしく、そして可愛らしかった。
 私が指や舌でふれる度に繊細に反応を返してくれたし、唇を重ねた後の恍然とした顔つきは私の心臓をいとも簡単に鷲掴みにしてしまった。
「シロ……ねえ、シロ……」
 彼女が甘くとろけそうな声で私を呼ぶ度、私は溺れているような感覚を味わった。彼女の想いと私の想いがぐちゃぐちゃに混ざり合って、そのまま溶けてしまいたかった。
 全てが終わったとき、先ほど胸を焦がしていた熱情は冷めていき、私たちの間には気まずい沈黙が横たわっていた。お互い何も言わず視線さえも合わせないで、ただ無言のまま、服を着直した。
「……シロ。悪いんだけど、今日は帰ってくれる?」
 乱れなく服を整えた彼女は、俯いたままそう言った。私はしばらく黙って、その言葉をゆっくりと呑み下す。
「塞……」
 口を開きかけて、私は言葉を詰まらせた。彼女は怯えるような目で、私を見ていたのだ。
「……お願い……」
 彼女は小さくそう言った。私はもう、それに従う他なかった。立ち上がって、部屋の出口へと向かう。
「シロ……ごめんね」
 出ていく瞬間、塞がそう言った気がした。
 それは何に対して? 何に対しての、「ごめん」なの?
 無性にそう聞きたかったが、口を噤んだまま、私は塞の家を後にしたのだった。

 ……そして今日、彼女は学校に来なかった。私は小さく息を吐き出して、机に突っ伏す。
 ダルい。もう何も考えたくない。それでも、考えずにはいられない。
 ――私たちのしたことは、間違いだったのだろうか。
 ふと自分の中をよぎった言葉が、胸に突き刺さってきた。
 そんなことない、と否定したかった。だけどあのときの塞の目を思い出すと、もう何もわからなくなってしまった。


「シロ。ちょっと」
 授業が終わるなり、胡桃が私の席へやってきた。昼休みの時間帯になり、クラスメイトはお弁当箱を出したり机を合わせたり購買に出かけたりと、慌ただしく楽しげな雰囲気を出していた。
「何?」
「塞のことで、話がある」
 座っている私の前に立った彼女は、じっと強い眼差しを向けてきた。一度、鼓動がどきりと跳ね上がったが、私はそれが表に出ないように呑み込む。
「ここじゃなんだから、部室に」
 彼女は有無を言わさぬ様子で歩いていってしまう。私はついていくしかなかった。
 部室に入ると、そこには意外なことにエイスリンと豊音がいて、二人とも麻雀卓についていた。胡桃も当たり前のようにそこに座り、私もそれに倣った。
「サイコロ、振るよー」
 豊音がそう言って卓上にサイコロを放った。どうやら麻雀を始めるらしい。どういうつもりだろう、と私は思う。
「……シロさ、塞と何か、あったんでしょ」
 ちりばめられた牌をかき混ぜそれを集めて山を作りながら、おもむろに胡桃は口を開いた。余計な回り道はせずにそのまま本題を切り出す。彼女らしい。
「……別に。何もないよ」
「嘘つくな」
 とっさに私がついた嘘を、彼女はぴしゃりとたたき落とすような声で否定する。
「ナメないでもらえる? 友達が何か隠してるのに気づかないほど、私は鈍いつもり、ないからね」
 伊達に麻雀、続けてないから、と出来た山から自分の持ち牌を作りつつ胡桃は言う。
 見ると、牌を取っていく豊音もエイスリンも、心配そうな視線を私に送ってくれていた。この人たちは、と思う。私を問いつめるために、責め立てるためにここにいるわけではないのだ。私と塞を思い、今この場に顔を合わせているのだ。
 そう気づいた途端、私は心がふと軽くなっていくような気がした。どうやら無意識のうちに、とんでもなく重くて大きなものを、私は一人背負い込んでしまっていたみたいだ。
 でも、彼女たちは私と一緒にそれを背負おうとしてくれている。ならば、話してしまわないわけにはいかなかった。
 私も牌を自分の手元に手繰り寄せ、そして言った。
「私……前から塞のこと、好きだったんだ」
 自分でも思いがけない言葉が、こぼれ落ちた。ああ、そうか、そうだったのかと妙に納得している自分がおかしかった。ずっと昔から胸の中でくすぶっていたこの想いは、あのとき私を突き動かしたのは、そういうことだったのだ。
 それから私は、ぽつりぽつりと拙い言葉であったことを話した。ありのままのことを、洗いざらい全て吐き出した。
「……私は、塞を傷つけてしまったのかもしれない」
 最後に、私は誰に言うともなく呟いた。
 塞からのキスが引き金になったとは言え、彼女は私がしたことを、本当は望んでいなかったのではないか。私はただ感情に流されて、彼女の心を深く傷つけてしまったのだろうか。
 もしそうだったとしたら。牌を捨てようとした手が、止まる。
 もしそうだったのなら、私はもう、塞の前にいる資格なんて、ない。
「シロ、ソレ、違ウヨ」
 不意に、エイスリンがそう言った。
「私も、違うと思うなー」
 豊音も続く。
「あのさ、シロ。だから、ナメないでってば」
 最後に胡桃がため息混じりに言った。
「気づいてないみたいだけど、塞がシロのことをどう想ってるかなんてさ、私たちからすれば丸わかりだったよ」
 ほんと、見せ牌もいいとこだよ、と彼女は笑う。
「それに、好きでもないやつにそんなこと許すほど、塞は馬鹿じゃないからね」
 その言葉に、私はどれほど救われただろう。私はきっと、欲していたのだ。自分を受け入れ、認め、そして諭してくれるそんな温もりを。それをくれたのは、他ならぬ私の仲間たちだった。
「……ありがと、みんな」
 私は熱くなった目頭を隠す。ここでよかった、と思った。この場所に居られて、私は本当によかったと、心から感謝したくなった。
「いいって。それにしても、どっちもほんとニブチンだね。見てるこっちが焦れったくなっちゃうよ」
「ニブチンスギテ、ワタシ、困ッチャッタヨ」
「まさか教えるわけにもいかないしねー」
 部室内に和気藹々とした空気が戻ってきた。そんな時だった。
 突然入り口の扉が開いて、振り向いた私たちは驚いた。そこに立っていたのは、塞だったのだ。
「……あれ。みんな教室にいないからここにいると思って来たんだけど……ひょっとして、お邪魔かな?」
 彼女は呆気にとられている面子を見て、おどけてみせた。しかしその態度はどこかぎこちなく、さらには目元に濃い隈が刻まれているのを私は見逃さなかった。
「塞……」
 私が思わずそう呼ぶと、彼女は目に見えてびくっと体を竦ませた。
「……あー、教室に忘れ物しちゃった。取りに行ってくるね」
 彼女はそう言って、そのまま出ていってしまった。私は為すすべもなくただそれを見送った。
「シロ! ホラ、行キナヨ!」
 エイスリンがはっとして言った。
「今行かないと、ちょっとまずいかもねー」
 と豊音も言う。確かに私は、今すぐ彼女を追いかけたかった。でも、まだ迷いがあったのだ。
「でも……」
 私たちは、これまでずっと友達としての関係を保ち続けてきたのだ。今彼女と話せば、全てがばらばらになって、もう二度と元に戻ることがないような気がした。怖かった。それはとても恐ろしいことだった。
「あー! もうっ!」
 突如胡桃が、麻雀卓を手のひらで叩いた。そして私を睨むようにして、すごい剣幕で怒鳴りつけた。
「しっかりしろ! 小瀬川白望ッ!」
 その大声が、私を押し止めていたものを壊してくれた気がした。私は立ち上がって、なりふり構わず駆け出す。
 何を恐れているんだ、私は。そんなの、今更すぎるだろう。このままじゃ、友達としての彼女だって、失ってしまうぞ。
 昼休み終了のチャイムが廊下に鳴り響く。構わなかった。多分塞は、教室に戻らないだろう。行き先はわからないけれど、どこまでだって探してやるつもりだった。


 塞は、屋上に続く階段の踊り場で、身を丸くして縮こまっていた。屋上は封鎖されているから、ここを誰かが通るなんてない。塞なら人目を避けるだろうと考えたのが、どんぴしゃだった。
「塞」
 私が呼びかけると、小さくなったその背中は、臆病な動物のように震えた。
「シロ……」
 立ち上がって、彼女は私と向かい合う。その瞳は落ち着きなく揺らいでおり、私を前にしている彼女の戸惑いが手に取るようにわかった。
「シロ、ごめんね?」
 私が何か言う前に、彼女が先手を打った。
「いつも通りでいようって覚悟決めてから、学校に来たんだけどさ……やっぱり、無理だったみたい」
 いびつに、そして力なく彼女は笑う。きっと彼女はここに来るまでに、一人で途方もなく悩んでいたのだろう。学校に来るのだって、相当の勇気が必要だったはずだ。
「あのさ。私がこんなこと言うのは虫が良すぎるかもだけど……全部さ、なかったことにしない?」
 不意打ちの言葉に、衝撃が走った。彼女は続ける。
「私がシロに、えっと……キス、しちゃったのは、多分、一瞬の気の迷いだと思うの。これまで誰とも付き合ったことなかったからさ。……寂しかったんだよね、私」
「さ、塞……?」
「シロも、同情してくれたんでしょ。あんなことさせちゃって、ごめん。これからもさ、いつも通りでいてくれる?」
 私は何と言ったらいいかわからなかった。
 やっぱり彼女は、間違ったことをしてしまったと思っているのだろうか。あれは何の意味もない、ただの慰めにしか過ぎなかったのか。全部、全部、錯覚だった?
 泣きたくなった。急に差し出された手を振りほどかれて、独りぼっちにされたような気がした。
 だがふと彼女に視線を戻したとき、全てを悟った。
 彼女は全身で、私に縋っていた。その手足が、その唇が、その瞳が。頼りなく震え、声にならない叫びで私の名を呼んでいた。
 シロ、シロ、シロ……ねえ、お願い。これ以上言わせないで。この言葉を否定して。
 ――私のことを、離さないで。
 堪えきれず、私は彼女を抱きしめていた。ばらばらになってしまいそうなその体を、私の中に繋ぎ止めるように。
「シロ……?」
「違う。違うよ、塞……」
 気持ちがとめどなく流れてきて、喉の中で詰まってしまいそうになる。だから私は少しずつ、ゆっくりと言葉を紐解いていった。
「同情じゃない。それだけであんなことが出来るほど、私は、器用じゃないから」
 あれが同情だけで行ったことだとしたら、何故今もまだ心は震え続けているのだろう。あなたに触れたい、あなたを守りたい、あなたと共にいたいと、胸が焦げ付いてしまうほど、どうして思い続けることができようか。
「塞、好きだよ」
 私は言った。ずっと自分の心の中で温めてきたその気持ちを。ようやく、彼女に届けることができた。
 最初は、ぽろりと一粒。それから堰を切ったように塞の瞳から涙がこぼれ始めた。
 それが、彼女の答えだった。きっと彼女は、私がこう言うのを、ずっと待っていたのだ。結局私たちはお互いのことがわからずに不安で、まったく同じところで悩んでいたみたいだ。
「シロ……シロ……シロ……」
「うん、塞。大丈夫。大丈夫だよ」
 もう、一人じゃないよ。
 泣きじゃくる彼女を、私は固く抱きしめ続けていた。


「カッコ悪いとこ、見られちゃったなぁ」
 バツが悪そうに塞が言う。私たちは踊り場の壁に背を預け、並んで座っていた。塞はまだ鼻を啜っていたものの、涙は乾いてしまったようだ。
「まあ確かに、そうだね。カッコ悪かった」
「えっ、何それ。フォローとか、全然なし? 何か気の利いたこと言ってよ」
「……だって、そんな塞も、私は好きだから」
「えっ、ちょっ、はい?」
 顔を真っ赤にしている彼女が、今はただ愛おしい。もっと、カッコ悪いところを見せてほしい。そう素直に望める自分に、驚く。
「急にそんな吹っ切れるの、やめてってば。もうちょっとオブラートに包んでよ」
「えー、ダルい……」
「そこは労力使わないんだ……」
 そこでチャイムが鳴り響いた。どうやら、放課後が来たらしい。私たちは、午後の授業を丸々サボってしまったようだ。
「うわっ、これは胡桃にどやされそうだなぁ」
「じゃあ、部室行くのやめる?」
「ううん、行くよ」
 私たちは立ち上がる。階段を降りようとした時、塞が後ろから声をかけてきた。
「……ねえ、シロ」
「何?」
「私も、ちゃんとシロのこと、好きだからね」
 ……気の迷いなんかじゃなくて。遅れてやってきた返事は、私を満たすには十分すぎるほどだった。目がちかちかする。
「じゃあ、胡桃に怒られに行きますか」
「怒られると思うとダルくなってきた……塞、背負ってって」
「自分で歩きなさいよ、自分で」
 私たちは、前と同じように、賑やかな会話をしながら階段を下っていった。


「塞」
 呼びかけると、壁にもたれかかっていた塞が目を開けて私を見上げた。
「シロ……」
 インターハイ、二回戦。その会場だった。
 副将を任された塞が、対局の休憩時間になっても戻ってこなかったので私は探しにきたのだ。まさか、廊下で眠り込んでいるとは。
 モニター越しに戦っている彼女は、かなり辛そうだった。さすが全国大会あって、相手も一筋縄ではいかないようだ。
「貸そうか?」
「えっ、何を?」
「……肩か手」
 座り込んでいる塞は少し考えてから、すっと手を伸ばしてきた。私はそれを引っ張って彼女を起こしてやる。
「……貸すだけじゃなくて、ちょうだい」
 そう呟いた彼女は、そのまま勢いで私の胸に飛び込んできた。目を丸くしている私に、彼女は顔を近づける。唇と唇が、軽く音を立てて触れ合った。
 たった一瞬。でもそれだけで、よかった。
 やがて離れた塞は対局室へと向かう。その背中に、私は声をかけた。
「……がんばって」
 振り向いて、塞は得意げに微笑む。なんて眩しいのだろう、と思う。彼女は光だった。炎のように鮮やかに赤く輝き続ける、そんな凛々しい光だ。
「まあ、らくしょーってことで」
 その背中は、もう振り返ることなくまっすぐと前を見据えていた。それを見送ってから、私は控室に戻って行く。彼女の帰りを、信じて待つために。
 副将戦が、再び幕を開く。



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