咲-saki-


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白い炎、赤い光

白い炎【前編】

シロ塞




 最初に一目見たときから、変わった子だなと思った。
 少し高めの身長で、猫背。それでいていつもつまらなそうな眼差しは、彼女の気だるそうな雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。高校に入学してからしばらく過ぎて、他のクラスメイトたちは既に自分たちのグループを作っていたけれど、彼女だけは誰の輪にも入ろうとしなかった。
 彼女の席は私の斜め前にあり、少し顔を向ければそこに突っ伏している彼女の姿が見られる。授業中もそんな様子なので、大丈夫だろうかとちょっと気にかけていた。とにかく彼女は常に無気力で、自分の席からもほとんど動こうとしないのだ。
 そんな彼女と初めて話したのは、ほんの些細なことがきっかけだった。
 帰りのホームルーム中に今朝買ってきた麻雀雑誌を読んでいた私は、ホームルームが終わったのにも気づかないでずっとそれに集中していた。
「塞っ! 部室いくよ!」
 胡桃が私を呼んだ。彼女は既に教室から出ていくところだった。
「あっ、胡桃待って! すぐ行く」
 私は慌てて鞄に荷物を詰めて、立ち上がる。しかしチャックを閉め忘れていて、途中で最後に入れておいた麻雀雑誌を落としてしまった。
「おっとっと。やばやば……」
 拾おうと振り返った私は、一瞬固まる。彼女が、私の落とした雑誌を拾い上げていたのだ。
「……はい。落としたよ」
「あ、ありがと……」
 差し出された雑誌を受け取る。思っていたより透き通った、綺麗な声だった。そういえば私は、彼女の声を一度も聞いたことがなかったのだ。
「臼沢さん……だったっけ」
「そ、そうだけど」
「麻雀、やるんだ」
 その時、彼女の瞳の中に微かな光が灯っていたのに、私は気づいた。
 どことなく他の人とは一線を置いているような彼女が、密かに胸に秘めていたもの。それは何というか、雲間からそっと顔を見せたお日様みたいな。そんな温かさを、私は感じたのだ。
 ……思えば私は、その頃から既にシロに惹かれ始めていたのかもしれない。


「シロ! シロ!」
 半荘を終わらせて、振り向きながらエイスリン――エイちゃんがシロを呼んだ。呼ばれた本人は、少し離れたところの椅子にもたれかかってぼんやりしている。ある意味、いつもの部室の風景だった。
「……なに?」
「コータイ!」
「んー……ダルい」
「ちょっと、シロ!」
 麻雀牌を持ったままの手で、胡桃がシロを指さす。
「もう本番近いんだからさ。ほら、さっさと立つ!」
 本番、というのは、この夏に控えているインターハイ、すなわち全国高等学校麻雀選手権大会という、一度に言い切れそうにない麻雀大会のことだ。私たち宮守女子麻雀部は、岩手代表としてそれに参加する権利を得て、今はそれに向けてみんなで調節中、というわけなのである。だから最近の放課後は、ほとんど毎日のようにみんなで麻雀卓を囲んで練習しているのだ。
「んー……あと五分」
 どうやら椅子にへばりついてしまったらしく、シロが動き出す様子はなかった。
「どうしよー、塞ー」
 豊音が困ったような目で私を見る。仕方なく私は立ち上がった。そしてシロの後ろから両脇に手を回してぐいっと引き起こし、そのままずるずる引きずって麻雀卓まで連れていく。
「はぁ、ちょっとは自分で動こうとしなさいよ」
「んー、努力する……」
「ほら、ちゃんと自分の力で座る!」
 最後は叱咤して、ようやくシロを麻雀卓につかせることができた。こういうとき、彼女の面倒を見るのは、何故か私の役目になっている。おそらく、私が彼女をこの部に連れてきたからだろう。
「じゃあサイコロ降るよー」
 ひとたび麻雀卓につけば、シロの顔つきはまるで別人のように変わる。卓上に並ぶ全ての牌を見る目は鋭く冴え渡り、まるで数巡先までの道筋を見透かしているようだ。
 この時のシロは、本当に綺麗だ、と私は思う。牌を掴むために伸ばされた腕、やや持て余し気味に組まれたすらりと長い足、先まで尖っているような指。牌を引き、選び、そして捨てる。その一連の動作一つ一つに、思わず見惚れてしまう。
「……塞? 塞!」
 胡桃に呼びかけられて、私は我に返った。
「えっ、ごめん、何?」
「塞の番だってば。早く引いて」
「あ、うん……」
 私は牌を引いて、ほぼ反射的に自分の手から一つを捨てる。
「それ、ロン」
 瞬間、シロがゆるぎない力強い声で宣言した。私の捨てた牌が当たりだったようだ。
「え、あ……」
「もう、塞! しっかり捨て牌見とかなきゃだめじゃん。結構見え見えだったのに」
「ご、ごめん」
 胡桃に怒られて、私は素直に謝るしかない。確かに私は、捨て牌を見ていなかった。――シロしか、見ていなかった。
「サエ。テンボウ、点棒!」
 エイちゃんに呼びかけられて、私は慌ててシロに自分の点棒を手渡した。
「塞、最近ぼーっとしてるよー? 大丈夫?」
 豊音が心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「あー、もしかしたら、夏バテかも」
 そう受け答えしながらも、そうじゃないと私はわかっている。
 原因は夏バテなんかじゃなくて、シロなのだ。


 部活が終わって学校から外に出ると、すでに傾きかけた太陽が空を赤く染めていた。最近は、いつも夕暮れの訪れを早く感じる。それだけ、練習に身が入っているのだろう。
「そういえば、みんなちゃんとテスト勉強もやってる?」
 帰り道の最中、唐突に胡桃が部のみんなにそう尋ねた。そう、私たちにはインターハイの前に、期末テストという壁が待ち受けているのだ。当然赤点なんてとってしまえば、インターハイ出場が水の泡になってしまう危険性があった。
「ばっちりだよー」と豊音。
「アタリマエ、アタリマエ」とエイちゃん。
「まあ、そこそこね」と私。
「……ダルい」
 最後にそう呟いたのはシロだった。胡桃がため息をつく。
「……シロのことだから、大丈夫だとは思うけどさ。一応対策くらいはしといてよ」
「……努力する」
 シロは気のない返事をする。だが彼女がテストで赤点をとったことなどただの一度もなかったので、みんなそれほど心配しているわけでもないようだった。
 やがて胡桃とエイちゃんとは別の道へ、豊音は電車に乗って帰るので、いつものように私はシロと二人きりになった。
 歩きながら、私たちは途切れ途切れに会話を交わす。シロは元々あまり口数が多い方ではないし、私は彼女だけを前にすると途端にうまく言葉が出なくなる。
 長い付き合いなのにな、と思う。初めて彼女と話したときのぎこちなさが、まだ私の心のどこかに、根強く存在しているのかもしれない。
「……塞さぁ」
 ふとシロが、突然口を開いた。
「ん、何?」
「豊音も言ってたけど、最近上の空になってること、多いよね」
「あ、ああ。ほら、今年の夏の暑さにやられちゃって。まいったまいった」
「そう……」
 シロはおもむろにカバンを漁り始め、何かを取り出してそのまま私に差し出す。何故か、冷却ジェルシートだった。熱を出したときなんかに、おでこに貼るあれだ。
「……何これ?」
「ほら、塞がぼんやりしてるから、目が覚めるかなって」
「あ、ありがと……」
 使いどころがいまいちわからないけれど、とりあえず受け取っておく。ちょっとずれているけれど、これは彼女なりの、私への気遣いなのだ。それくらいは承知している。
 面倒くさがり屋のくせに、他人の心情には敏感で気を回す。シロには、そんなところがある。そして私は、シロのそんな相反しているところが好きだった。……そう。好きだ。
 やがて、私とシロも分かれ道に差し掛かる。
「じゃあ、ここで」
「うん。ばいばい」
 別れの挨拶を交わしたものの、私はその場から動けずにいた。
 シロの優しさに、触れてしまったからだろうか。今日は、何となくいつもより離れがたいような、そんな気分だった。
「……あのさ、シロ」
「ん?」
 歩きだそうとしていたシロが、足を止めてこちらを見た。
「あ、明日休みだし、その……テスト勉強、見てあげよっか……なんて」
 さっきのお返し、と私は今頭に思い浮かんだことをぎくしゃくと並べていく。
 シロは片方の眉尻を下げて、じっと私を見つめていた。まるで私の言葉の意図を推し量っているかのように。私はいたたまれない気持ちでじっと俯いていた。
「……じゃあ、お願いしようかな」
 しばらくして、シロの口から出た言葉に、少なからず私は驚く。てっきり、「ダルいからいいや」と彼女は言うと思っていたのだ。
「そ、そっか。それはよかった」
「……塞の家でも大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、また明日」
 そう言い残して、シロは歩き出す。彼女の姿が曲がり角で見えなくなるまで、私はその背中を見送った。
 ――また明日、か。
 そんな一言で舞い上がっている自分に、私は一人呆れていた。


 偉そうにテスト勉強を見てあげようか、と言ったものの、実際シロに教えることなどほとんどなかった。彼女は元々頭が良かったし、そこに勘の良さも加わってどの教科の問題でも持て余すことなどないのだ。
 たまにわからないことを尋ね合ったりするだけで、私たちは背の低いテーブルを挟んで黙々とペンを走らせていた。
「……だる」
 問題集と向かい合っていたシロが、突如電池が切れたみたいにテーブルに突っ伏す。時計を見ると、勉強会を始めてから二時間ちょっと経っていた。私もペンを置いて大きく伸びをする。
「ちょっと休憩しよっか。何か飲む?」
「飲む」
「麦茶でいい?」
「……なるべく、糖分がとれるもの」
「はいはい。冷たいジュース、持ってきてあげる」
 私は立ち上がって台所へ向かう。戸棚から二つコップを出して、今更気づいた。そうか。私、今シロと二人きりだった。
 ……いや、別にそれで何がどうってわけでもないのだけれど。それでも、一度意識してしまうと、どうにも平常心を保てない。コップにジュースを注ぐ手が、わずかに震えていた。
 バカみたい、と私はテーブルに手をついてため息をつく。
 ずっと前からこうだった。シロを前にすると、私は私でいられなくなる。鼓動のテンポが少し早まって、ほんのりと顔が熱くなって、じっとしていられない気持ちになって。そんな些細な変化が、私を蝕んでいく。
 ……私はシロと、どうなりたいのだろう。自分に問う。この想いは一体何なのだろう。自分に問う。
 だけどいくら計算式を巡らせたところで、その解答は一向に導かれない。後には宙ぶらりんで消化不良な私が残る。もう一度ため息をもらして、私は二つコップを持ってシロの元へ戻った。
「おまたせ、シロ……」
 ぎょっとする。彼女はテーブルの前に横たわって目を閉じていた。座った体勢のまま、後ろに寝転がってそのまま眠ってしまったのだろう。
「シロ? 寝てるの?」
 コップを置いて、彼女の傍らにひざを付く。呼びかけても返事はなかった。ここは揺さぶって起こしてしまうか、風邪を引かないようにタオルケットでも体にかけてあげるべきなのだろう。でも私は、どちらもできなかった。彼女の寝顔に、ただ見入ってしまっていた。
 彼女は子供のように、あるいはそれ以上に無防備な表情で目を閉じている。触れたら刺さってしまうほど長く艶やかなまつげ、雪のように白い頬。なぞるようにそれらを眺めていく私の目は、やがて彼女の唇で止まる。まるで熟れたての果実のように赤く色づいたもの。自分の心臓が痛いほど波打っていた。もしかしたらそれは、一種の警告音だったのかもしれない。
 でも私は、もう冷静ではなくなっていた。
 吸い寄せられるように私の顔は彼女の元へ降りていき、やがて柔らかい感触が私の唇へと触れた。それは本当に柔らかかった。目の前で火花が散るようだった。もっとその柔らかさをまさぐりたくて、私は口で彼女の唇を優しくはんだ。駄目だ、とどこかで誰かが呼んでいる気がしたが、私はもっともっと、彼女を味わいたかった。
 ふとシロの手が私の髪に触れた。私は弾かれるように起き上がる。彼女の目は開いていて、そこに挙動不審な私を映しこんでいた。
「あ、え、し、シロ……」
 私はこの上ないほどの混乱に陥っていた。口のなかで思考ががんじがらめになって、言葉にならない。しかし例えどんな言い訳をしたとしても、もうこの状況から逃れることはできなかっただろう。
 私は、取り返しのつかないことをしたのだ。
 青ざめている私の頬に、ふとシロが手を添えてきた。壊れ物に触るみたいな、優しい手つき。落ち着いて、と言っているようだった。
「し、シロ……ごめ……わ、私、こんなつもりじゃ……」
「いいよ、塞」
 シロがそっと私の名前を呼んだ。穏やかで、どこまでも澄み渡っていくような声だった。
「いいんだよ、塞」
 彼女は私をゆっくりと引き寄せ、今度は自分から唇を重ねてきた。私は何が何だかわからなかった。けれどそんな戸惑いは、すぐに彼女のしなやかな感触に呑み込まれていく。
 とても長い時間、私たちはお互いの唇を貪っていた。もしくは、それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。
 彼女の手が私の服に伸びて、そっとボタンを一つ、外した。私は彼女を見る。彼女も、私を見ていた。
 彼女の瞳の中で、何かが揺れていた。それは、色のない真っ白な炎だ。淡泊そうにゆらゆら身を燻らせながらも、轟々と音を立てて情熱的に燃える、彼女の熱。……初めて言葉を交わした時にも、確か彼女はこんな目をしていた。ただあの時のが優しい陽だまりだったとしたら、今の彼女が宿しているのは荒々しい火炎だ。
 触れてみたい、と思った。彼女の中で燃えるものに。例えその熱さにこの身が焦れてしまおうとも、私はその甘さに溺れてしまいたかった。
「シロ……」
 名前を呼ぶ。自分でも聞いたことがないほど、艶を帯びた声だった。私を焼いて。私を焦がして。私を燃やし尽くして。あなたの、体温で。
 シロは小さく頷いて、一つ、また一つと、私の服のボタンを外していった。



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