悪魔のリドル


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イマジン

後編

ちたひつ




「ぼくはある組織の元で、特殊な訓練を受けさせられていました。主に、毒物に対する耐性をつけるためです」
 ベッドに腰掛けた柩は、さっそく話し始めた。その声に温度はなく、ただ説明に徹するつもりのようだ。
「そして組織は、ぼくの体にちょっとした手を加えました。人間の体の中に必ずあるもの――すなわち血液が、毒になるようにしたんです。ぼくは生きながら毒を生み出し続けられる、毒物生産機なんです」
 衝撃的な言葉だった。通りで、一体どんな毒なのか情報が得られなかったわけだ。
 血液を空気中に蒸発させれば毒ガスとして使用でき、直接相手の血管に混ぜればそのまま毒殺することもできる。しかも無限に作り出すことが可能。まさに万能の毒、というわけだ。
「千足さんの恋人が巻き込まれた事件は、ぼくの血が使われました。だけど、ぼくは直接関わってません。それだけは、信じていただけますか」
 努めて冷静にしていたが、そこだけ柩は必死な感情を滲ませて言った。困惑しつつも、千足は頷いた。
「……ああ、信じるよ」
「……よかった」
 一瞬表情に光が射したが、彼女の顔はすぐに曇ってしまう。
「……千足さんは、エンゼルトランペットを抹消したい、と言っていましたよね」
「……ああ、言った。だが……」
「なら、ぼくを殺してください」
 ナイフを目の前に差し出されて、千足は動揺する。足下から音を立てて、何か大切なものが崩れていくような感じだった。ひどく目眩がする。
「ぼくが死んだら、エンゼルトランペットはそれでこの世から無くなります。さあ、千足さん」
「だが、私は……」
「どうせぼくは、長くないんです。それなら、千足さんに殺された方がいい」
 衝撃が走る。目眩が更に強くなった。目を押さえながら、千足は口を開く。
「どういう、意味だ。桐ヶ谷……」
「耐性があると言っても、エンゼルトランペットはぼくの体をどんどん蝕んでいるんです。多分あと少ししか、持たないと思います」
「どうして早く言わなかったッ!」
 思わず声を張り上げてしまった。柩の体がびくんと揺れた。
 わかっている。言えるわけがない。エンゼルトランペットが仇だと、私が言ったからだ。私が、知らない間に桐ヶ谷の首を少しずつ少しずつ、締めていたのだ。
「……聞かせてくれ。どうして、私と遠くに行きたいなんて言ったんだ……」
 震えながら尋ねる。それだけがずっと心の隅に引っかかっていた。
「……冗談ですよ。どうせその前に、ぼくは死んでしまうから」
 柩は笑う。それは笑顔じゃなかった。内に秘めた絶望を奥へ奥へと押し込んでいくような、そんな悲しみの表情だった。


 柩のことを、千足は殺せなかった。殺せるわけがなかった。
 だが、彼女は日が経つ度に目に見えて弱っていった。顔色は青ざめ、咳をする回数は増えていく。よろけて倒れてしまうことも多々あった。
 唇を噛みしめながら、千足はそんな彼女の隣にいた。彼女の苦しそうな姿をただ見ていることしかできないのが、何より苦しかった。
 だが、私には何もできない。殺して彼女を楽にすることだって……。
 ふと、全てを打ち明けた夜、柩が話していたことが頭をよぎった。
「黒組に来たのは、ぼくの体を治すためだったんです。でも、それも無理そうですね」
「……どうしてだ?」
「一ノ瀬さんを殺すなんて、ぼくには出来ません。ぼくはこんな体だけど、直接誰かを手にかけたことはないんです。……暗殺者失格ですね」
 柩の精一杯の冗談が、千足の胸に刺さってきたことを覚えている。
 閃くものがあった。一ノ瀬晴暗殺に成功すれば、どんな願いも叶えられる――。
 だが、千足もまた人を殺めたことはなかった。自分は暗殺者ではない、ただこの場に紛れ込んだ異物だ。
 しかし、もしもの時は……。
 千足は心の奥で、密かに暗い決意を固めるのだった。


 夜。柩は寝間着姿で自室のベッドに、気だるそうに横たわっていた。
 千足は彼女の額に手のひらを置いて、優しくさすってやる。微量、熱があるようだ。
「えへ、千足さんの手、冷たい……」
 嬉しそうなその姿がいじらしくて、見ていられなかった。だから無駄だとわかっていても、千足は言う。
「桐ヶ谷……私に何か、できることはないか」
 何でもよかった。私が死ぬことで彼女が生き長らえるなら、喜んでこの命まで捧げるつもりだ。だが、世界はそこまで優しくはない。
 少し考えてから、柩が言った。
「抱いて……くれますか、千足さん」
 思ってもみない申し出だった。だがそれで彼女の気が晴れるなら、と思う。
「いいのか、桐ヶ谷」
「はい、お願いします」
「……わかった」
 千足はおずおずと、まずその小さな唇を塞いだ。舌を差し込んで、中の一つ一つを巡っていく。彼女が毒で出来ていると知った後でも、何の躊躇はなかった。いつだってこの子は、清らかなのだ。
 柩の寝間着のボタンを外していると、彼女から提案された。
「千足さんも……脱いでください。体温を、直接感じたくて」
「ああ、わかった」
 柩を下着だけの姿にさせてから、千足も自分の衣服を脱ぎ捨てて同じ格好になった。
 そのまま二人ベッドの上で、横になって抱き締め合う。柩のほんのりとした温かさに触れて、千足はその幸福感に酔った。このまま、時間が止まってしまえばいいのに、と思う。
 そうすればいつまでも私たちは、幸せなままでいられるのに。
 不意に柩の手が、千足の胸を下着越しに揉みしだいた。予期していなかったので思わず声を出してしまう。
「き、桐ヶ谷……?」
「ふふ、千足さんの胸、やっぱり素敵ですね」
 柩は千足の鎖骨の辺りに歯を立てながら、胸の愛撫を続ける。微弱な刺激ながら、じりじりと千足の神経を焦がしていく。
「これ、外しますね」
 柩が千足のブラのホックを外す。そしてすぐさまそそり立った胸の先に吸いついた。
「千足さんのここ、美味しいです。食べちゃいたいくらい」
「あっ、桐ヶ谷……っ」
 もう片方のピンクの突起も、指先でぐりぐりといじられる。継続的な快楽の波に、呑み込まれそうだった。
「こっちも……いいですよね」
 妖艶に微笑んで、柩が手をショーツの中に忍ばせてきた。一番過敏な部分に触れられて、反応せずにはいられない。
「あ……っ!」
「とろとろ……ですね。千足さんのココ」
 千足の蜜で汚れた指を、柩が目の前で舐めとってみせた。官能的な仕草が、千足の脳幹を揺るがす。
 更に柩は、千足の秘所をくすぐるように指を動かす。襞の表面を幾度となく擦られて、理性が剥がれ落ちそうになる。
「千足さん……入れますね」
 柩が宣言して、すぐだった。二本の指が押し広げるように千足の中に入ってくる。
「気持ちいい、ですか。千足さん……」
「くっ……ああ、いいよ」
 だから、桐ヶ谷も。口の中でそう呟いて、柩の下着の中にも手を入れた。すでにソコはびっしょりと潤っていて、まるで湖のようだった。するりと指を、柩の中に滑り込ませる。
「はぁっ……千足、さん……っ!」
「温かいよ、桐ヶ谷の、中……」
「千足さんも……」
 お互いの中で、お互いの指を動かし合う。二人は自然の流れで、もう一度口づけをした。
 今ここに、時間という概念は存在しなかった。あるのはただ、最愛の人と一つになっているという幸福な感覚だけ。穏やかな波間に揺られているみたいだった。
 しかし、それにも終わりはやってくる。千足はそろそろ限界だった。柩も多分そうだ。
「桐ヶ谷っ……もう、無理そうだ……」
「千足さん……僕も、もう……っ」
 意識が弾けて、二人はほとんど同時に達していた。視界が霞むほどの絶頂感と、長く続く余韻。やがてゆっくりと波は引いていく。
「桐ヶ谷……大丈夫か」
 腕に抱いた柩に呼びかける。しかし、返事はなかった。
「桐ヶ谷? ……桐ヶ谷ッ!」
 額に触れると、すごい熱だった。柩はぐったりと目を閉じて、何の反応も示さなかった。


 音を立てないように、千足は部屋へと戻ってきた。まっすぐ、ベッドで眠っている柩の元へ向かう。
 暗闇の中で、柩は苦しそうに喘いでいた。顔色がどんどん悪くなってきている。もう長くないというのは、本当だったのだ。
 奥歯を噛みしめて、千足はひざまずきその手を静かに取った。
「……予告票を、出してきたよ」
 そっと囁く。
 予告票を出した者は、四十八時間以内に一ノ瀬晴抹殺を実行しなければならない。失敗した場合は、強制的に退学。
「君の体を治すことが条件だと、走りには言ってきたよ。後戻りは、できない」
 迷いはあった。しかし、もうそんな猶予も残されていない。エンゼルトランペットは今にも、柩の体を喰らい尽くそうとしている。
「桐ヶ谷。君はもう苦しまなくていいんだ。その分だけ――私が苦しんでやるから」
 立ち上がった千足は、持ち込んでいた剣を取り出した。一度鞘から抜いて、細長い刃を確認する。
 ――大丈夫、やれる。やらなければ、ならないんだ。
 頭の中で何度も唱えてから、千足は剣を携えて部屋を出ていった。


 舞台に選んだのは、広い体育館だった。ここなら思う存分戦うことが出来るし、他の誰かを巻き込む心配はない。
 扉を開けると、間接灯だけが点けられた薄暗い空間の中に、二つの影が見えた。一ノ瀬だけを呼び出したつもりだったが、やはり東兎角も来たようだった。
 二人は現れた千足を振り向いて、目を見開いた。
「千足さん? 呼び出したのって、千足さんだったんですか」
「生田目、一体何の用だ」
「……話があるんだ。大事な、話だ」
 歩み寄りながら、千足は剣を抜いた。途端に兎角が晴を下がらせ、懐からナイフを取り出す。二つの刃が、薄闇の中で鈍く光っていた。
「……どういうつもりなんだ、生田目千足。一ノ瀬には手を出さないんじゃなかったのか」
「……事情が変わった。悪いが、こうするしかないんだ。――許してくれ」
 躊躇は一瞬だった。
 千足は地面を蹴って兎角に詰め寄る。振りかざした刃を兎角が受けた。閃光。兎角が繰り出してきた蹴りを千足は素早く避け剣を突き出す。再び兎角がナイフでガードする。何度と無く刃がぶつかり合い、鋭い音を響かせた。
「千足さん、やめて! どうしてこんなこと……」
 晴の悲痛な声が問いかけてくる。ぐっと歯を食いしばった。
「これしかないんだ……こうしないと、桐ヶ谷が――」
「柩ちゃんが……?」
 兎角の放ってきたナイフを打ち落とす。内一本が頬を掠めた。流れた血を拭って、千足はじっと晴を見据える。
 涙が一筋、瞳からこぼれ落ちた。それを見た晴は驚き、兎角も動きを止める。
「生田目、お前……」
「千足さん……」
「このままでは桐ヶ谷が死んでしまう。それだけは絶対に嫌だ。だから、一ノ瀬――」
 千足は剣の切っ先をまっすぐに晴に向ける。もう涙は、消え失せていた。
「――桐ヶ谷のために、死んでくれ」
 足に力を込めて、一気に踏み出す。剣をいつでも繰り出せるように構えながら。
 もう大切な誰かを失うのはごめんだった。あの日助けることのできなかった恋人の姿がよぎり、柩と重なる。
 今度は、助ける。必ず、助けるのだ。
 待ちかまえる兎角に構えた剣を振り下ろそうとした、瞬間だった。
「――千足さん、ダメですッ!」
 声が体育館の中に轟いた。振り返ると入り口にもたれるようにして、柩が立っていた。
「桐ヶ谷!? どうして……」
「……千足さんが考えることくらい、お見通しです」
 こちらに駆け寄ってこようとする柩。しかし途中で足がもつれて、そのまま地面に叩きつけられてしまった。
「桐ヶ谷ッ!」
 剣を放り出して、千足は彼女の元へ駆け寄る。それからゆっくりと抱き起こした。彼女は淡い笑みを浮かべていた。
「ダメですよ、千足さん……。あなたは人殺しになんて、なっちゃいけないんです……」
「ああ、ああ……。すまない。すまなかった、桐ヶ谷」
 強く彼女の手を握りしめる。はっとなるほど、指先まで冷たくなっていた。
「あなたまで苦しまないでください。この毒は最後まで……ぼくが持っていきますから……」
「桐ヶ谷? おい、桐ヶ谷!」
 柩の体から急激に力が抜けていくのがわかった。千足は乱暴に彼女を揺さぶる。
「……ああ、千足さん……見えますか?」
「何がだ! 何が見えるんだ!」
 柩は何もない闇の先へと、腕を伸ばした。
「……海辺の、私たちの白い家……見えますか……?」
「桐ヶ谷! ダメだ、逝くな……ッ!」
 やがて柩の腕が、糸の切れた人形のように垂れ下がった。
 そこにもう、彼女の魂はいなかった。
「――柩ッ……!」
 世界が終わる音がした。いくら名前を呼んでも、その頬に触れても。彼女が目を覚ますことはない。もう、二度と。
 千足は重くなったその体を強く、本当に強く抱きしめた。
 私の命を使ってもいい。柩を、柩をもう一度だけ……。しかし優しくない世界は、千足の願いを聞き入れない。
 やがて千足は、柩の亡骸を抱き抱えて立ち上がった。振り向かないまま、言う。
「東、一ノ瀬。すまなかった。世話をかけたな」
 一歩、また一歩と。緩やかな速度で歩き出す。足取りはこの上なくしっかりとしていた。
「生田目……どこへ行くんだ」
 兎角が聞いてくる。やはり、千足は振り向かずに歩を進めた。
「……約束の場所だ」
 遠い遠い国の、浜辺の近くにある白い家。そこには犬がいて、爽やかな潮風が吹いていて。
 そんな場所で柩と、気が済むまで一緒に夕日を眺めるのだ。地平線の彼方へと沈んでいく、尊く儚げなあの赤色を。
 心なしか、柩も微笑んでくれているような気がした。そんな彼女に笑い返しながら、千足は一人、夜の闇の中へ消えていった。



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