咲-saki-
I'm not afraid
シロエイ
どこまでも続く雪景色の中を歩いていると、時々自分がどこにいるのかわからなくなる。
見渡す限りの、真っ白な世界。そこにぽつんと取り残されたような気分になる。だから私は、この景色があまり好きではない。
「エイスリン」
シロが私を呼んだ。振り返ると、彼女は少し後ろの方でのろりのろりと歩いていた。
「ダルいから、あんまり先に行かないで」
「シロガ遅イノ。ワタシ、悪クナイヨ」
そう言いつつも、私は彼女が追いつくまで待っていた。シロが、私のところへ向かってきてくれる。それを見るのが好きだったから。
「お待たせ」
ようやく追いついたシロは、いきなり私の手を掴んできた。
「ドウシタノ? シロ」
「ほら、こうしたら先に行けないでしょ。次は、私が前ね」
そっけなく言って、彼女は私の手を引きながら歩き出す。繋がれた手が温かくて、心地よい。つい頬が緩んでしまう。
何の色もなかった風景の中に、シロという鮮やかな色が広がっていく。不思議だ。シロに手を引かれていると、先ほど感じていた不安が、あっと言う間に和らいでいく。
でも、もうすぐこんな時間にも終わりがやってくる。そう思い返して、私の心はまた重くなっていった。
「……モウスグ、卒業、ダネ……」
気づいたら、そうこぼしてしまっていた。シロは振り向かない。それでも、繋いでいる手に若干力がこもるのがわかった。
「そうだね……」
今全てを覆い尽くしている雪が溶ければ、やがてシロたちは高校を卒業する。でも、私は違う。
私は、自分の国へ帰らなければならない。
なるべく考えないようにしてきた。それでも最近は、何をしていても考えてしまう。もうすぐ私は、宮守のみんなと、シロと、さよならしなければならない。
ねえ、シロ。私はシロを見上げる。そしてなるべく小さい声になるように慎重に口を動かした。
「あなたは、私と一緒に来てはくれないのね」
自分の国の言語で、そんな言葉を紡いだ。早口で、絶対に聞き取られないように。
「……エイスリン? 今、何か言った?」
案の定、振り向いたシロが聞き返してくる。私は首を振った。
「……ウウン。何モ言ッテナイヨ」
「……そっか」
彼女は再び歩き出す。聞き返さない彼女の優しさが有り難くて、そしてほんのちょっぴり憎らしかった。
あれは、インターハイが終わってから少し経った頃だろうか。
夏の暑さが若干和らいで、秋の訪れを感じさせる。そんな中途半端な時期だった。木々も、まだ赤い葉を茂らせていなかったと思う。
インターハイの後もみんなで麻雀を続けていたので、私は放課後、いつものように部室に向かった。
「アレ……?」
しかし部室の扉には鍵が掛かっていた。この時間帯なら、誰かがもう中にいてもおかしくないはずなのに。
「あ、エイスリン」
後ろから声に振り向くと、シロだった。私は尋ねる。
「シロ、他ノミンナハ?」
「いや、その……」
言いにくそうな様子で、シロは打ち明ける。
「……塞も、豊音も、胡桃も。みんな進路のことがあるから、今日は来られないって」
……進路。三年生になった今、誰もが考えなければならないこと。みんな、もうその分岐点の前に立たされているのだろう。もう、そんな時期なのだ。
「ソッカ……」
私はうなだれる。仕方のないこととはいえ、やっぱり私の胸に寂しさが込み上げてきた。ひょっとしたら、もうみんな揃って、麻雀も出来ないかもしれない。
「一緒に帰ろう、エイスリン」
そう言ったシロの表情は、ひたすらに優しかった。はっとなる。あまりに優しすぎて、目の前がぼやけてしまう。
「エイスリン……?」
私の瞳から、涙が伝った。泣くつもりなんてなかった。でも、一度溢れてしまったら、もう止まらない。
「シロ……」
塞も、豊音も、胡桃も、そしてシロも、どんな行き先を選んだとしても、会おうと思えば会える距離にいる。
でも、私は。みんなが歩いていく先に、きっと私は手が届かない。それほどに、遠い場所に、私は帰らなければならない。
もう、時間がない。だから私は、今、伝えなければならないと感じた。
「シロ……アノネ、アノ……」
必死に口を動かそうとする。でも、言葉が出ない。なんて言えばいいのだろう。この胸にずっと秘めてきたものをシロに伝えるためには、どんな言葉を使えばいいのだろう。
わからなくて、私は手に持っていたホワイトボードに絵を描こうとする。だけど視界が滲んで、何も描くことができない。ただ真っ白なままの表面に、雫が滴っていくだけ。
それは、突然だった。途方にくれる私の体を、シロが不意に抱きすくめたのだ。ホワイトボードが床に落ちる音が、どこか遠くから聞こえた。
「シロ……?」
「エイスリン。わかってるよ……わかってるから」
振り絞るような声で彼女はそう言って、私に口づけした。
あまりに甘く、あまりに柔らかく、余りにほろ苦い。そんなシロの唇が、私を満たす。世界が回る音が、止んだような気がした。
何も知らなかった私に、シロはたくさんのことを教えてくれた。キスをする幸せ、人肌の温かさ、そして、誰かを愛するという痛みにも似た切なさを。
本格的な秋がやってきて、涼しくなってきた時、私はシロに尋ねてみたことがある。人目を盗んで、私たちは帰り道を辿りながら手を繋ぎ合っていた。
「シロ」
「ん……何?」
立ち止まって彼女は私を見る。私はゆっくりと、辿々しく言葉を並べていく。
「ワタシガココカライナクナッタラ、シロハ、追イカケテ来テクレル……?」
やがて冬が来て、春になったら。私はここにはいられなくなる。こんなにも近づいたシロと、離れ離れになってしまう。
……もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。だから、聞いてみたかった。
シロは黙っていた。だけど、その表情が徐々に曇っていくのが私にはわかった。きっと彼女は自分の中で言葉を探している。そして、見つからなくて焦っている。
私は繕った笑顔を、シロに向けた。
「……ジョーク、ダヨ。ニュージーランドジョーク」
私は彼女を抜いて歩き出す。繋いでいた手は、いつの間にか離れてしまっていた。シロは何も言わずに、後ろから足音もなくついてきていた。
嘘でもいい。頷いて欲しかった。一人になってしまう私を、少しでも安心させて欲しかった。……なんて。こんなのは、ただの私のわがままで、自己満足だった。
それからもう二度と、私はシロに同じことを尋ねなかった。
私とシロは、毎日のように会い続けた。年末にはシロの家で年を越し、初詣は麻雀部のみんなと一緒に行った。その時に聞いた話によると、塞、胡桃、豊音はもう推薦で県内の大学の合格が決まったらしい。
「シロは?」
そう尋ねられて、シロは「んー、ぼちぼち」と言葉を濁していた。
私はシロの進路を知らない。気にはなっていたけれど、どうしても口に出して聞いてみることができなかった。
だって、シロがどこへ行くにしてもそれは、私のいる場所ではないから。そんな風に自覚してしまうのが、怖かった。今まで作り上げてきたシロとの世界が壊れてしまうようで、ただ恐ろしかった。
きっと彼女は、私が帰った後に進路の準備を進めているのだろう。
私は勝手にそう思って、自分の為に時間を割いてもらっていることを、ただ申し訳なく感じた。
会うのをやめよう、なんて言う勇気はなかったから、私にできることはそれだけだった。
そして、その日はやってきた。
みんなの卒業式を前日に控えた日。私は朝早くに、空港へと向かっていた。
電車の窓を、雪が溶け始めた風景が流れていく。私はそれを見つめている。
こんな眺めとも、もうお別れ。そう思うとまた涙がこみ上げそうになって、私はぐっと堪えた。昨日の夜だって、散々泣いたくせに。
昨日もシロは私に会ってくれた。一緒にいられる最後の時間、私はひたすら彼女の前で泣いて過ごした。
「帰リタクナイ。シロト、ズット一緒ニイタイ」
うわ言のようにそう繰り返して、それでも足りずに想いは涙に変わった。シロは泣き続ける私を抱きしめ、頬を流れる涙をそっと舐めてくれた。私たちは数え切れないほどキスをして、一分一秒を惜しんで絶え間なく抱き合った。
まだ私の体に、彼女のしなやかな体温が残っている気がする。何でだろう、と思う。
私たちはこんなにも想い合って、こんなにもすぐそばにいるのに、どうして離れ離れにならなければならないのだろう。無駄に晴れ渡っている空に問う。もちろん答えは返ってこなかった。
空港には、みんなが駆けつけてくれた。
「エイスリンさん、寂しいよー。お手紙、絶対書くからねー」
目に一杯涙を溜めて、豊音が言う。
「エイちゃん、楽しかったよ。向こうでも元気でね」
胡桃はいつもと変わらない声音で、だけど若干語尾を震わせて言った。
「みんなでニュージーランドに行くから。そのときにまた会おうね」
塞は、少し強ばった笑顔を作っていた。すぐにその後、泣き顔に変わってしまったけれど。
別れを惜しんでくれる、そんなみんなの気持ちがあまりに嬉しくて、やっぱり私は泣いた。
でも、私が一番傍にいてほしい人は、そこにはいなかった。
「シロ、あのバカ。何やってんのよあいつは」
「わわっ、もう時間ないよー」
みんな姿を見せないシロに憤慨していたが、私は首を振るった。
お別れなら、もう昨日のうちに済ませてきた。何度も何度も心と心とで伝え合った。……だから彼女は、きっとここには来ないだろう。
「……イイヨ、ミンナ。イイカラ。ワタシハ、平気ダヨ」
上辺だけの言葉を並べた。時計を見ると、もう飛行機の時間が迫っていた。
「ジャア、ミンナ。元気デネ」
色々なものがたくさん詰まったキャリーケースを引いて、私は歩き出す。みんなの視線が、いつまでも私の背中を見送ってくれていた。
荷物検査を済ませて、出発ロビーへと足を踏み入れる。これからどこかへ向かう人々で、その場はごった返していた。
ああ、そうか。もう私は、一人なんだ。
たくさんの人達に囲まれて、私は痛いほどそう実感した。喧騒の中に、埋もれてしまいそうになる。でも、もう、私だけで歩き出さなければならない。
私が乗るニュージーランド行きの飛行機は、もう搭乗手続きを始めているみたいだった。私は重くなった足を引きずるようにして、搭乗口へと向かう。
「――エイスリンっ!」
その時だった。私の名前を叫ぶ声が、耳に飛び込んできたのは。
振り向いた私は自分の目を疑った。シロが立っていた。じっと私を見据えて、シロが立っていた。
「……どうして」
思わず漏れた呟きは、自分の国の言葉になった。出発ロビーには、飛行機に乗る人間しか入れないはずなのに。何で彼女が、ここにいるのだ。
彼女はまっすぐ駆け寄ってきて、私をその体に包み込んだ。ああ、と思う。もう二度と触れることはないはずの、シロの温もりだ。私も彼女の背中に腕を回して、抱きしめ返す。せわしなく人々が通り過ぎていく中で、私たちの時間だけが止まっていた。私たちはまだお互いから手を離さないまま、見つめ合う。
「……私も行くよ。エイスリンと、一緒に行く」
そう言って彼女がポケットから取り出したのは、パスポートと、搭乗チケットだった。「ニュージーランド行き」。そこにははっきりそう書いてあった。
「デ、デモ、イイノ……?」
私は混乱した頭でようやく尋ねた。これは、一体どういうことなのだ。シロは本当に、私についてくるつもりなのだろうか。
「うん。諸々のことは、後で考えるから」
彼女は言い切った。一片の迷いもなく。私を見つめるその瞳は、揺るぐことのない強い光が宿っていた。
本気なのだ。そう感じた途端、私を踏みとどめていた力が抜けた。私は涙を一粒、零した。今度は悲しみではなくて、幸せを、堪えきれなかった。
もう一度、彼女と深く抱き合う。
「……バカダヨ。シロハホント、オバカサンダヨ……」
「……うん。そうだね。自分でも、そう思う」
場内アナウンスが、飛行機の出発時間を告げている。私たちは頷いて、搭乗口に向かって歩き出した。
一人だった私の手は今、シロの手と、繋がれている。
だから私は、歩いて行ける。
もう怖いものなど、何もなかった。