咲-saki-
星の海、あなたとふたり
咲和
インターハイのために、東京の向かう前日の夜。
私は街頭の少ない夜道を、走っていた。家を出る隙を窺っていたら、すっかり遅くなってしまった。
……咲さんは、もうとっくに着いているだろうか。あまり待たせていなければいいのだけれど。私はなおのこと足を速めた。
咲さんから電話が来たのはつい先ほどで、東京に滞在するための荷物を纏めている時だった。
「夜分ごめんね、和ちゃん。……もし、よかったらなんだけど、これから会えないかな」
普段控えめな彼女の、珍しいお願い。私も、丁度彼女のことを考えていた。だから、すぐに二つ返事をしたのだった。
待ち合わせに選んだのは、駅に向かう最中の、田圃に囲まれた場所だ。そういえば県予選決勝の前夜にも、彼女と二人きりでそこを歩いて帰った気がする。
待ち合わせ場所に着くと、田圃によって開けた景色を、じっと眺めている彼女がいた。薄暗い空間に佇むその姿が何故か儚げに見えたのは、何故だろう。
「あっ、和ちゃん」
こちらに気づいた咲さんが手を振ってくれた。そこにはもう儚さの面影はない。いつもの彼女だ。
「ごめんなさい、遅れてしまって。待ちました?」
「ううん、私も今来たところだよ」
何となくベタな会話になってしまって、彼女と顔を見合わせて笑う。
「いきなりごめんね、無理言っちゃって」
「いいえ、構いません。何かあったんですか?」
「いや、別に何がってわけじゃないんだけど……」
口ごもって、彼女は田圃の方に向き直ってしまう。
「……和ちゃんに会いたいなって、思って」
「私になら、明日の朝だって会えるじゃないですか」
「ううん、そうじゃないの。今、会いたかったの」
そう言ってちらりと私を見た瞳には、ちょっぴりの気恥ずかしさと、たっぷりの慈愛が光っていた。胸が高鳴る。顔がぼんやりと熱くなった。
「……迷惑だったかな」
「い、いいえ。迷惑なんて、そんなことありえません」
「ふふ、ありがとう、和ちゃん」
彼女は本当に嬉しそうに微笑んだ。私まで恥ずかしくなってしまって、彼女と同じ方向に体を向ける。すると、肩が触れ合うくらいまで、彼女が距離を詰めてきた。
「私ね、和ちゃん。全国で強い人たちと戦えるのは楽しみだけど、本当は、ちょっと不安だったのかも。……お姉ちゃんのことも、あるから」
最後の方は、萎んでしまったような囁き声だった。
彼女も、背負っているものがあるのだ。そして、私にだって。
拳をぐっと握りしめる。
「和ちゃんは、どう? 不安になったりしない?」
「……いえ。私はいつも通り、どんな相手でも全力を尽くすまでですから」
「そっか。強いね、和ちゃんは」
違う。私は強くなんてない。だって、怖いのだ。
もし全国で優勝できなければ、私はみんなとも、咲さんとも離れ離れにされてしまう。
だから私は、勝ち続けなければならない。一度の負けだって許されないのだ。
自分に訪れるかもしれない敗北の瞬間。それが何よりも恐ろしかった。
「あっ、星」
ふと咲さんが空を見上げて言った。私も彼女に倣って上を向いた。
「わあっ。綺麗ですね……」
思わずそう呟いてしまう。きらきらと瞬く光が、暗闇の中でひしめき合っている。一つとして同じものはなく、それでも等しく美しい煌めき。
目を奪われると同時に、どことなく気持ちが沈んだ。
「どうかしたの、和ちゃん?」
私の変化をめざとく悟ったのか、咲さんが尋ねてくる。
「大したことじゃないんですけど。こんなに広くて真っ暗な空を見上げていると、時々、心細くなってしまって……」
誰もいない世界に、一人取り残されてしまったような。圧倒的な孤独感が、私を包み込む。もちろん、そんなのは錯覚なんてことはわかっていた。
だけど、どうしても振り払えない。
不意に温かい感触が、私の手を覆った。咲さんの手だった。
彼女は何も言わずに、ただ優しく、柔らかに私に笑い掛けてくれた。
一人じゃない。そうか、私は一人ではないのだ。
隣には、咲さん。あなたがいる。
彼女の手をやんわりと握り返す。
「そういえば、「星が綺麗ですね」みたいな言葉、誰か言っていなかったっけ」
咲さんが突拍子もないことを言い出す。思わず吹き出しそうになった。
「咲さん、それを言うなら「月が綺麗ですね」でしょう。ほら、夏目漱石が翻訳した言葉です」
「ああ、そうだったね」
じゃあ、和ちゃん。彼女は掴んでいた手を軽く引いて、私を抱き寄せた。
「……月が、綺麗ですね」
耳元で囁かれた言葉。途端に私は耳まで真っ赤になった。
「も、もう! 咲さん、誰かに見られたらどうするんですか」
「平気だよ。ここには私たちしかいないから」
彼女は私の手の甲に、そっとキスを落とす。確かにそうだ。
この広大な星の海に浮かんでいるのは、今、私たちだけだった。だけど心はゆったりと押し寄せる波のように穏やかだ。
繋がれた手が、私に勇気をくれる。彼女とならどんな闇の中だって、怖くない。それに、たくさんの星たちも、見守ってくれているから。
やがて彼女の唇が、私の唇へと導かれる。
空へと浮かび上がっていくような感覚に、私は目を閉じ身を委ねた。