悪魔のリドル


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夜明け前より

すずこう




夜明け前より

 首藤涼は待っていた。
 ミョウジョウ学園の入り口前はまだ薄暗く、藍色で空気が染まっている。太陽も目を覚ましていない時刻だから当然だ。
 しかし彼女のなら、必ずこの時間に現れることを涼はわかっていた。
 やがて小さな足音と共に、見覚えのあるシルエットが遠くから浮かび上がる。やはりな、と涼は笑う。
「香子ちゃん。もう行ってしまうのか?」
「……首藤」
 涼の姿を認めるなり、神長香子は若干驚いた様子を見せる。しかしすぐにいつもの固い表情に戻った。
「まだ夜明け前じゃぞ? もう少しゆっくり出発しても、バチは当たるまいに」
「いいんだよ。負けて、こんなに惨めな体たらくは、誰にも見られたくなかったんだ」
 首藤には見られてしまったがな、と自嘲気味に香子は言う。
 今回の十年黒組は、一ノ瀬晴暗殺のために暗殺者たちが集められている。いわば暗殺対決だ。
 香子はその戦いに、負けたのだった。暗殺失敗の場合は、ほぼ強制的に退学なのだ。
 涼は目を伏せて、もう一度笑った。
「惨めなものか。潔い敗北宣言もまた、一種の雄々しさだ。人は基本的に、負けを認めたがらないものじゃからな」
「……それは、慰めているのか」
「さあ、どうじゃろうな」
「まあどちらにしろ、私はここを出ていく。それは変わらない」
 涼の横を通り過ぎて、香子は歩いていく。その足が学園の外に差し掛かる直前で、彼女は立ち止まった。振り向かないまま言う。
「……結局ここも、私の居場所ではなかったというわけだな」
 独りごちるような言い方だった。もしくは本当に、自分の内面に話しかけているのかもしれない。ずっと彼女はそうやって一人で、自問自答を繰り返してきたのだろう。
 だから涼は、答えてあげたくなった。暗闇の中で寂しげに佇んでいる、その背中に。
 呼びかける。
「ワシの隣なら、いつでも空いてるぞ!」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。
 振り向いた香子は目を見開いて、それから静かに笑みを浮かべた。
「何だそれは。プロポーズみたいだな」
 涼は言葉を失った。彼女の笑顔が未だ姿を見せないお日様よりも、鮮やかで綺麗だったからだ。
「……首藤? どうした」
「なぁに。香子ちゃんの笑った顔を、初めて見たからのう。思わず見惚れてしまった」
「……お前は私を口説いているのか」
「好きなようにとってもらって構わんよ」
 少し考えるような仕草をした後、香子は前の方を向いてしまった。歩き出す。多分、もう立ち止まらないだろう。
 だけどその顔に微笑みを携えていることを、涼は知っていた。
「じゃあな、首藤。また会おう」
「おう。またな、香子ちゃん」
 小さくなっていく背中に、大きく手を振った。まるで掛け合わせのように二人の口から出た、「また」の別れ言葉。
 約束とはほど遠い、だけどあるだけで、ほのかな希望を灯すものだ。
 涼は香子を最後まで見送ってから、軽い足取りで寮へと戻っていった。



 
夜明け前から

 持ち込んだ荷物を纏めていると、部屋のデジタル時計が午前四時を指していた。涼はため息をつく。もはや自分に時間の流れは関係ないというのに、時計ばかり気にする癖がついてしまった。
 荷物を持ち、扉を静かに開けてから足を忍ばせて廊下を歩く。そのまま外へ出た。
 見上げた空はすでに色づき始めていた。こんな空を見るのはもう何回目じゃろうか、と涼は思う。一度だけ深呼吸をして、また歩を進めた。
 ハイランダー症候群。年を取らないまま、永遠に生き永らえてしまう病気だった。涼は人の何倍も時の流れの中を生きているのだ。
 黒組に入ったのも、そんな自分に嫌気が差していっそのこと治してしまおうと思ったからだった。普通に老いて、普通に死ぬ。それが望みだったのだ。
 ――しかし結局、願い叶わずといったところか。
 涼は一ノ瀬晴暗殺に失敗した。故に、退学。今まさにミョウジョウ学園を後にしようとしているところだった。
 ふと歩きながら、自分より一足先にここを出ていった人物の姿を思い出す。常に険しい表情を浮かべて、その内面もまた堅物な少女――神長香子。
「……香子ちゃん。結局ワシも、負けてしまったようじゃ」
 そう呟いて、自分自身をあざ笑った。
 また一人で、気が遠くなるほど長い時間を過ごさなければならない。いつまでも容姿の変わらない涼は周りから見れば気味が悪く、誰も近寄ってはこないのだ。
 まあ、前からそうだったし、またいつも通りの日々に戻るだけじゃな。
 入り口が見えてきた。足を早めた涼は数歩進んで、立ち止まった。
 誰かが立っている。いや、誰か、などではない。
 それは涼がよく見知っていた人間――神長香子だったのだ。
「香子……ちゃん?」
「遅かったな、首藤。待ちくたびれたぞ」
「退学になったはずじゃ……?」
「敷地外なら、問題ないだろ?」
 確かに香子が立っている場所は、学園の敷地の一歩外だった。抜け目のない彼女らしい位置だ。
「なるほどな。……しかし、一体どうしたんじゃ。ワシに何か用か?」
 尋ねると不意に、香子は涼に向かって手を差し出した。小さくて白い、綺麗な手だった。
「迎えにきた」
 と彼女は言った。涼は戸惑う。
 香子ちゃんは今……迎えにきたと、言ったのか?
「それって……ワシを、か?」
「他に誰がいるんだ」
「しかし、一体どうして……?」
 いつか見せたあの眩しい笑みを、彼女は浮かべる。目を細めてしまった。
「お前が、隣ならいつでも空いている、と言ったんじゃないか。もう忘れたか」
 思い出す。確かに香子が学園を出ていくときに、そんなことを言った気がする。だけど自分は、普通の人間とは違うのだ。
「……香子ちゃん。気持ちは嬉しいがワシは……」
「ああ、知ってるよ。ハイランダー症候群と言うんだろう。珍しい病気だよな」
 走りから聞いていたんだ、と何でもないことのように彼女は言う。知っていたのだ。とっくに昔から、涼のことを。
「……だったら、余計にダメじゃろう。ワシは年を取らない。ずっと、香子ちゃんに追いつけないのだぞ」
 思わず沈んだ声が漏れた。そう、ダメなのだ。
 過去に涼の近くに居てくれた人たちは、それが理由で結局は離れていってしまったのだから。
「……あのな、首藤」
 香子が眼鏡を押し上げる。少し呆れているみたいだった。
「私が覚悟もなしに、ここに立っていると思っているのか」
 ふわりと吹いた風が、優しく頬を撫でた。
 目の奥が熱くなる。香子の言葉は、今まで人に言われてきたどんな台詞よりも、涼の心を揺さぶった。優しく、凛々しい。
 涼は自分の体が軽くなり、そのままふわふわと宙に浮いてしまいそうな気がした。幾度となく感じたから、この感情の名前を知っている。
 これはそう――恋に落ちる、というものだ。
「……まったく。香子ちゃんには負けるのう」
 自然と笑顔になっていた。涼は手を伸ばして、しっかりと香子の手を掴む。
「一度掴んだからには、ワシはなかなか離さないぞ、香子ちゃん」
「望むところだ。むしろ、お前の方が覚悟した方がいいぞ。私は粘り強い」
「またまた難儀な言い方じゃのう。だが」
「だが?」
「……そういう香子ちゃんが、ワシは好きだな」
 久しぶりに誰かに向けて言った言葉だった。
「……いいから、行くぞ」
 香子は顔を逸らし、涼の手を引いて歩いていく。きっと、照れているのだ。
 微笑ましく思いながら、涼はそんな彼女の後に、ついていくのだった。



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