悪魔のリドル


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マリオネットの終演

すみしん




 大きく裂けた天井から、輪郭の淡い月が見えている。英純恋子は瓦礫と埃にまみれて横たわりながら、それを仰ぎ見ていた。
 体の節々から、ジジジという音と共に火花が上がっている。もうどの箇所も壊れてしまったようで、動きそうにない。指の一本さえも、まるで力が入らなかった。
 ――ずいぶん手ひどくやってくれましたわね、一ノ瀬晴。
 純恋子は一人微笑んだ。多大なダメージを受け、挙げ句には晴によって学園の屋上から突き落とされて、今こうしてここで転がっているのだ。こんな状況まで追いやられるというのは、初めてのことだった。
 純恋子の体は一部を除いてほとんど機械で成り立っている。英財閥の血筋として何度となく命の危険にさらされ、ついには家の者に提案された機械化手術を受け入れることになったのだった。
 しかしどれだけ人間離れしようとも、結局のところ一ノ瀬晴には少し及ばなかったというわけか。純恋子はもう一度口元を歪ませる。
 少しずつ目の前の空がぼやけてくる。瞬きすらも億劫になってきた。そろそろ時間切れなのだろう。これだけやられてしまえば、こうなるのも当たり前だった。
 敗者にはふさわしい惨めな最後ね。そう自嘲して、ゆっくりと目を閉じようとする。
「おう、純恋子。ずいぶんひでぇ格好じゃねえか」
 ふと、唐突に誰かが呼びかけてきた。霞みだした視界に、よく見知った顔が現れる。いつでも愉快そうな笑みを携えた、夜だけ現れるルームメイト。
「……真夜さん」
「コテンパンにやられたみてぇだな。やっぱりさすがのお前でも、一ノ瀬には勝てなかったか」
 番場真夜はそう言って、純恋子の近くにどかっと座り込んだ。
 何故だろう。彼女が近くにいるとわかっただけで、少しだけ心が和らいだ気がした。
 ……そうか。自分は心細かったのか、と純恋子は気づいて苦笑する。
「ええ。結局わたくしは、ただの道化人形に過ぎなかったわけですわね」
「人形ねぇ。確かに、面白い体だよな」
「ふふ、そうね。いかにも人形みたいで、滑稽でしょう?」
 所々欠けてしまった体を見下ろして、純恋子は言う。電力も失われたのか、もう火花すら起きていなかった。
「……なあ、純恋子。お前は何でそんな体になったんだ」
 突然真夜が尋ねてくる。いつもの笑みを潜めて、限りなく無表情に近かった。彼女にしては珍しい顔だ。
「……英財閥の権力を、証明するためですわ」
 少し考えてから、そう言った。真夜は何も返さずにじっと純恋子を見つめている。少しも納得していないような目だった。
 どうやら彼女は即席の嘘など、お見通しのようだ。観念して口を開く。
「……本当は、少しでも弱い自分を隠したかったのかもしれないわね」
「弱い自分?」
「幾度となく命を狙われて、その度に震えて泣いて。そんな自分自身が、とても嫌いでしたの。自分を守れるようになれれば、少しは変わるかもしれないと思ったのかもしれませんわ」
 上空に浮かぶ月に、雲が掛かった。そんな光景さえも、段々歪んでいってしまう。
「わたくしはわたくしを――好きになりたかったのね」
 だって今まで誰も、わたくしを愛してくれなかったから。今までの記憶が走馬燈のようによぎる。
 父親も母親も親族も。純恋子をただの道具としてしか見ていなかった。命を狙われるという状況さえも、家系のステータスの一種であると見ていたくらいだ。
 純恋子の体の機械化も、彼らは大いに喜んだ。これで英財閥の技術と権威を他人に見せつけることができる。純恋子の存在は彼らにとって、英財閥のパフォーマンスに過ぎなかったのだ。
 急激に視界がぼやけた。かと思うと、瞳の端から温かい液体が頬を伝い、滑り落ちていく。
 何だったんだ、と思った。これまでの自分の人生は一体、何のためにあったんだ。
 やがてゆっくりと世界が暗くなっていく。月の明かりさえもう届いてはくれない。……終わりのときがやってきたみたいだ。
「……真夜さん。わたくしそろそろ、行きますわ」
 努めていつも通りに言おうとしたはずなのに、その声はか細かった。それどころか、全身が小刻みに震えているのに気づく。
 怖かった。これから死ぬのだと思うと、みっともなく何かに縋ってしまいそうだった。
「うっ……うっ……」
 嗚咽さえ漏らしてしまう。わたくしは、何一つ変われていない。あのときの弱い自分のままだった。
 不意に、誰かが。純恋子の体を起こし、両腕で包み込むように力強く抱きしめてきた。
 真夜だ。
「真夜、さん……?」
「お前は、弱くなんかねぇよ」
 そんな言葉が、耳元で聞こえた。
「オレがずっとこうしててやるから……安心して、行ってこい」
 その瞬間。真っ暗な純恋子の世界に、一筋の光が。静かに優しく、差し込んだような気がした。
 ああ、何て温かいのだろう。――人に、思われるというのは。
「……ええ。ありがとう、番場さん」
 瞼を閉じる。もう何も恐れることなどなかった。
 最後に一粒だけの涙を落として。
 純恋子の世界は、終わりを告げた。



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