悪魔のリドル


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目が覚めたなら

理事鳰




目が覚めても

「ふへーっ、いいお湯だったっス」
 走り鳰は上機嫌でベッドに転がり込んだ。入浴を済ませたばかりなので、体が火照っていて気持ちがいい。しかしいい気分なのはそれだけではなかった。
「駄目じゃない、鳰さん。まだ髪も乾かしてないでしょう」
 脱衣所からきっちりナイトガウンを着込んだ百合目一が現れた。先ほどまで一緒に浴室に入っていたのだった。
 ここはミョウジョウ学園の一画にある百合の部屋である。とはいえ普通のマンションの一室などとは格が違い、かなりの広さがある。置かれているソファやテレビ、テーブルなども全て高級品だった。鳰が今いるベッドもキングサイズで、天蓋までついている。
「すみません、理事長。ちょっとテンション上がっちゃったっス」
 そう言って立ち上がった鳰は、上下の下着しか身につけていない。体に刻まれた黒鳥の刺青が剥き出しになっていたが構わなかった。この人の前では、ありのままの姿を晒すことができる。
「今、乾かしてくるっス」
 脱衣所に戻ろうとした鳰を百合が押し留めた。
「やってあげるから、そこに座りなさいな」
 彼女の手にはドライヤーが握られていた。鳰は更に破顔して、「はぁい」なんて甘えた声を出した。
 ベッドに腰掛けると、ドライヤーの温風が控えめに当たってきた。同時に百合の指が鳰の髪を優しく梳かし、丁寧に乾かしてくれる。
 心地いい。鳰は目を閉じる。今世界でもっとも幸せな人間は自分だろうと、胸を張って言えるような気がした。至福の時、とはこういうことなのだ。
「はい、終わったわ」
 ドライヤーが止まって百合の手が鳰の頭を撫でた。
「しっかりパジャマを着なさい。そのまま寝たら風邪を引いてしまうわ」
「はい、了解っス!」
 鳰は百合が用意してくれたパジャマに袖を通す。シルクの艶やかな生地が少し落ち着かなかったが、サイズはぴったりだ。きっと鳰専用にあつらえたものなのだろう。
「そういえば理事長の部屋に来るの、久しぶりっスね」
 パジャマのボタンをとじながら言った。最後に来たのは確か、黒組が始まる前だったような気がする。
「そうね。ここのところ、ずっと忙しかったから」
 百合が後ろから抱きしめてきた。振り向くと控えめに微笑んでいる彼女の顔がある。
 彼女も嬉しく思ってくれているのだろうか。だとしたらそれ以上のことはない、と鳰は思う。
「理事長……」
 百合と向かい合って視線を交わし、そのまま口づけを交わす。唇と唇が触れ合うだけの軽めのキス。挨拶のようなものだった。
「さあ、眠りましょう。明日も早いわ」
 百合が指を鳴らすと橙色の証明が薄く絞られた。彼女に導かれて、共にベッドに入る。二人で横たわってもまだまだ広い。
 それだけに、少し心細い感じがした。
「おやすみ、鳰さん」
「あの、理事長」
「あら。何かしら」
「えっと、その……ギュッとしてもいいっスか」
 おずおずとそう切り出した。すると百合は、薄暗闇の中で静かに笑う。
「今日は珍しく甘えん坊さんね。……いいわ、こっちへ来なさい」
 言われた通り腕を差し伸べた百合に近づき、抱きしめる。彼女も鳰を抱きしめ返してくれた。
 彼女の温もりを感じる。その優しさを感じる。おかしい。嬉しくて堪らないはずなのに、どこからかこみ上げた切なさが胸を絞めつけてくるのだ。鳰は更に強く、百合の体を抱いた。
「理事長、好きです」
「知ってるわ。……どうしたの、鳰さん」
「好きすぎて……どうにかなっちゃいそうっス……」
 今の自分を切り裂いたら、彼女への想いが途方もなく流れ出すだろう。
 彼女を愛している。愛しているが故に、いつか来る別れを予期せずにはいられない。それが切なさの原因だった。
 百合に拾われた時、鳰は一生を捧げると誓った。この人の傍でずっと生きていこうと決めたのだ。
 ――でも彼女は、いつかウチを捨てるかもしれない。
 時折、そんな考えが頭をちらつくのだ。そんなことはありえない、自分はこんなにも愛してもらっている。そう思い込もうとしても、どうしても消えてくれなかった。これも、彼女に出会うまでずっと一人で歩いてきた習性のせいかもしれない。
「……朝起きても、ウチの隣にいてくれるっスか……?」
 小さな声でそう尋ねた。そうじゃないと不安で押しつぶされそうだった。
「目が覚めても、いなくならないでください……」
 もしあなたが夢だったとしたら、もう覚めることなどなくていいから。鳰は泣き出してしまいそうだった。
 ふと百合が鳰の前髪を持ち上げたかと思うと、額に口づけをした。それからそっと頭を撫でてくれる。
「可哀想に。夜の闇に当てられたのね、鳰さん」
 まるで雲間から覗く日の光のような、穏やかな声だった。
「大丈夫よ、私はここにいるから。……安心して、眠りなさい」
 宿っていた暗い陰が、散っていく。鳰は一粒だけ雫を瞳から落として瞼を閉じた。
 この人に身を委ねている。そんな、絶対的な安心感。全てが澄み渡っていくようだった。
 そうして鳰は、百合の腕の中で眠りに落ちるのだった。



目が覚めたなら

 朦朧とする意識の中で思い浮かべたのは、やはり百合の姿だった。
 胸の部分から制服に血の染みが広がっていく。鳰を刺した兎角は今、気を失った晴を抱き起こしてむせび泣いている。
 床の冷たさが体に浸透していくようだった。寒い。ひたすらに寒い。
 死ぬんだろうか。そう思った。今まで結構な死線をくぐり抜けてきたつもりだったが、今回は本当に駄目かもしれない。
 視界が少しずつ黒く塗りつぶされていく。別に今更怖くなんてない。だけど。
 ――だけど最後に一目だけでも、会いたかった。
「……理事長……」
 掠れた声でそれだけ呟き、鳰の意識は完全に闇に呑まれた。

 どこかで泣き声がする。兎角ではなかった。これは、自分の声だ。
 気がつけば鳰は自分を見下ろしている。あれは小さかった頃の自分だった。
 何も見えない暗闇の中で泣きわめき、誰かを探してさまよい歩いている。たった一人きりで。
 やがて自分の姿が少しずつ大きくなり、泣かなくなった代わりに目つきがどんどん沈んでいった。人を信じ、その度に裏切られ、傷ついた結果だった。体には鋭い翼を持った二匹の鳥の刺青が刻まれている。これのせいでいつも周りの人間から疎まれていた。利用されることさえあった。
 ふと足を取られて倒れかける。そんな自分を不意に誰かが受け止めた。髪の長い麗しい女性。鳰は彼女を知っている。いや、知らないわけがなかった。
「あなた、一人なの?」
 しゃがみ込んだ彼女にそう問われ、自分は強く睨み返す。警戒心の表れだ。それに対して彼女は柔らかい笑みで返してきた。
「そんな怖い目をしないで。せっかく可愛いお顔が台無しだわ」
「かわ、いい……?」
 初めて言われた言葉に、思わずきょとんとした顔になっていた。
「ええ。もっと明るく振る舞いなさい。笑顔は美人の嗜みよ」
 そう言って彼女は、取り出したハンカチを鳰の頬に当てた。かすり傷が出来ていて、血が滲んでいたのだ。
「ねえあなた。居場所がないなら、私のところへ来てみないかしら」
「どういう意味……?」
「そのままの意味よ。私も寂しかったし、そうしてくれたらとっても嬉しいわ」
 笑って、彼女は鳰の頭を撫でた。そんなことは、今まで一度だってされたことがなかった。どうしていいかわからず固まった鳰を、更に彼女はぎゅっと抱きしめた。その小さくてボロボロな体を包み込むように。
「一人は辛かったでしょう。もう、無理しなくていいのよ」
 耳元でそう囁かれた言葉は、どこまでも慈愛に満ちていて。
 気がつけば鳰は泣き出していた。大粒の涙がぼろぼろと、後から後からこぼれていく。
 許された気がした。この世界に自分はいていいのだと、言われたような気がしたのだ。
 声を振り絞って泣きじゃくる。彼女は自分の服が汚れるのも気にせず固く抱きしめていてくれた。鳰はここで、ようやく産声を上げることが出来たのだ。
 懐かしいな、と鳰は過去の自分を少し離れたところで見つめながら思う。あの時自分は、彼女のために一生を捧げようと密かに誓いを立てたのだ。
 だけど。そんな大げさなことを考えていたくせに、少なからず自分は彼女のことをずっと疑っていた。捨てられるかもしれない、もう用済みだと言われるかもしれないと怯えながら。
 ――ほんと、ウチは従者失格っスね。
 一人自嘲気味に笑って、鳰はその場に佇んだまま目を閉じた。

 目を覚ます。どうやら夢を見ていたらしい。
 腕に点滴が刺されていた。負傷した胸にも包帯が巻かれている。どうやら自分は、助かったようだ。ここは病院なのだろうか。
 簡易なベッドの上で体を起こし、ため息をついた。我ながら無様な格好だと思う。晴を惑わし殺そうとしたが、結局のところ兎角に先を越され阻止された。初めての、任務失敗。
 これでウチも、お役目御免っスかね。
 一度だって失敗するような人間が、百合の側にいていいはずがない。つまりは、そういうことだ。
「おはよう、鳰さん」
 不意に声を掛けられて鳰を竦み上がった。窓際に置かれたソファに、百合が座っていたのだ。彼女は立ち上がってゆっくりと鳰に近づいてくる。
「傷は大したことないみたい。でもあと少しでもズレてたら、致命傷だったかもしれないって」
「あ……理事長、あの……」
 どうすればいいのかわからなかった。彼女の次の言葉が恐い。
 また捨てられるのだろうか。冷たく突き放され、お前はもういらないと宣告されるのか。鼓動がざわつき始める。嫌だ、嫌だ。彼女の傍に、いたかった。
 しかし百合は、縮こまった鳰を黙って抱きしめた。彼女の腕の中で、ただ呆然とする。
「目覚めなかったらどうしようかと思ったわ。……よかった」
 語尾が震えていた。鳰を包み込んだ腕も、微かに。
 何て愚かだったんだろうと思い知った。鳰は自分にばかり目を向けて、彼女の気持ちになどこれっぽっちも気づいていなかったのだ。
 彼女はこんなにも自分のことを、思っていてくれていたのに。
「……ごめん、なさい……」
 目頭が熱くなった。見開いた瞳から涙の雫がいくつも連なって流れ落ちた。
「もう二度と、こんな無茶はしないで。わかったわね」
 言葉が詰まって何も言えず、鳰は何度も頷き返す。代わりに嗚咽が喉を震わせた。
「もう。いつまで経っても子供みたいなんだから――鳰は」
 彼女は鳰の涙を指先で拭ってくれる。差し向けられた笑顔の温かさに、鳰はまた涙をこぼしてしまう。
「理事長のせいっスよ……そんなに優しくするからぁ……」
「はいはい。本当に手が掛かる子ね」
 一生を捧げる。何のためらいもなく、今ならそう宣言できる。
 いつまでもずっと、彼女の隣を歩いていこう。もう迷うことはない。
 鳰は再び、この世界に生まれ落ちたのだ。



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