悪魔のリドル


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虫けらよ踊れ

理事鳰




 お腹が空いたな、と走り鳰は思った。
 道端に倒れた体に、滝のような雨が降り注いでいる。指一本も動かすことができなかった。
 一体いつから何も食べていないんだろう。栄養になるようなものを口に入れたのは、もう何日も前のことだ。
 どんどん横倒しの視界がぼやけていく。このまま死んじゃっても、別にいいか。そう思った。どうせ死んだところで、悲しむ人間などもういない。
 父親だった奴は散々鳰のことを痛みつけ、それに飽きたら文字通り捨てた。ほんの子供である鳰は、食べ物を盗んだりゴミ箱を漁ったりして何とか生き延びていたが、ついに今日で限界というわけだ。
 これでようやく楽になれる。クソみたいな短い人生だった。
 目を閉じて、死がやわらかに訪れてくれるのを待つ。
 やってきたのは、死、などではなかった。
「あらあら。ボロ雑巾が落ちていると思ったら、生きているみたいね」
 頭上から声が聞こえてきた。目を開けると、すぐ前に光沢を放つハイヒールが二足並んでいるのが見えた。声の主は女の人だとそれでわかる。
「ゴミ拾いなんて趣味じゃないけれどね。こんなところで死なれても迷惑だから」
 食べなさい、と彼女が言うと同時に、何かが目の前に落ちてきて水しぶきを上げた。小さなメロンパンだった。
 どこにそんな力があったのだろう。気づけば鳰は夢中でそれに手を伸ばし、貪るように食べた。砂糖の人工的な甘さが口中に広がる。雨で湿っていたが、それは鳰が今まで食べたもので一番おいしく感じられた。
「おいしいでしょう。うちの学園の名物らしいわ、それ」
 そう言って、彼女が屈み込む気配があった。しかし這いつくばっている鳰には顔が見えない。
「ねえ、あなた。どうせ無駄な命なのだから、せっかくだったら誰かの役に立ちたいと思わないかしら」
 激しい雨音の中でもはっきりと、その言葉は鳰の耳に飛び込んできた。
 力を振り絞って、かろうじて聞き返した。
「役、に……?」
「そう。ゴミクズみたいな人生を、私に使わせなさい。あなたには将来、黒組の裁定者になってもらうわ」
 ふと、頭に何かが触れてきた。撫でられている、と気づくのに少し時間が掛かった。
 そんなことをされるのは生まれて初めてだった。
 ――なんて、心地いいんだろう。
 鳰はうっとりと目を閉じた。


 チャイムが鳴り響く音で、鳰は体を起こした。
 どうやら教室で、机に突っ伏したまま眠っていたらしい。授業はもう終わったらしく、担任の溝呂木の姿はもうなかった。
 随分懐かしい夢を見た。何で今更、と額を押さえる。
「鳰、おはよー。ぐっすり寝てたね」
 隣の席の一ノ瀬晴が笑顔で話しかけてくる。なるほど、こいつのせいか。鳰は納得した。
「おはよっス。おかげさんでぐっすりっスよー」
「随分楽しい夢見てたんだねぇ。晴も見てみたいなぁ」
「は? 何でっスか?」
「だって鳰、寝ながらちょっと笑ってたよ?」
 少し驚いた。そうか、自分は笑っていたのか。
「……そっスね。楽しい夢だったっスから」
 力なく口元を歪ませながら、鳰は乾いた声でそう返した。


「……以上で、報告は終わりっス」
 途中経過を簡潔に纏めて報告したのち、鳰はその言葉で締めくくった。内容は黒組の面々に課した一ノ瀬晴暗殺についてだ。
 正面にある壁全体がガラスになった所から、夕日がまんべんなく射し込んできている。その前のデスクに腰を据えているこの学園の理事長――百合目一は、満足そうに微笑んでいた。
「そう。やはり晴はしぶといみたいね。そうでないと面白くならないわ」
 鳰は密かに彼女の様子を窺っていた。今日は機嫌がいいようだ。今なら、もしかしたら受け取ってくれるかもしれない。
「……あら、どうしたの。報告が終わったなら下がっていいわよ、鳰さん」
「……あの、理事長」
 思い切って、鳰は素早く百合目の元へ歩み寄っていく。
「これ、どうぞ」
 後ろ手に隠していたものを彼女の前に差し出した。やや薄い紫色の花だ。
 百合目は怪訝そうな顔をしていたが、手を伸ばして受け取ってくれた。
 やった。それだけで鳰の胸は弾むように高鳴り、その勢いに乗せられて早口で言う。
「クロッカスっス。綺麗に咲いてたんで、植物園から譲ってもらったっスよ。その花を見つけたときから、理事長に似合うと思ってたんスけど、やっぱり――」
 続けている最中に、理事長が花を鳰の目の前で引きちぎった。
 更に紫の花びらを紙のようにぐちゃぐちゃに引き裂いていく。鳰は呆然とその様を見つめていた。
「……鳰さん、あなたの任務は何だったかしら」
「……えっ、あっ、黒組の裁定で……」
「じゃあくだらないことしてないで、裁定者らしく自分の仕事に集中しなさい」
 百合目は回転椅子ごと振り返り、外の夕日を見上げていた。もう、鳰のことなど目に入らないとでも言っているみたいだ。
「そんなゴミ。二度と持ってこないで。わかったかしら」
「……はいっス」
 口の中がカラカラに乾いている。うなだれて、そう返事するしかなかった。
 床の上にはクズ同然に、鳰の持ってきた花の残骸が散らばっていた。


「んっ……くっ……」
 くぐもった吐息が喉の奥から漏れ出す。鳰は声を出さないように、左手の袖を噛んで堪えていた。右手はスカートへ、タイツとショーツの中に忍ばせて、敏感なところを擦り上げている。
 女子トイレの個室の中だった。百合目への報告を終えた後、鳰はいつもこうしてここで自分を慰めている。そうせずにはいられなかった。
 どれだけ酷い仕打ちを受けても、百合目への想いは断ち切れない。いや、それどころか日に日に膨張していくみたいだった。
 あの日、餓死寸前だった所を助けられてから。鳰は百合目に、途方もない劣情を抱いていた。胸に生じた感情が忠誠や尊敬といったものではないと気づいたのは、つい最近のことだ。
 自分の髪を撫でてくれた、柔らかくて優しかった彼女の手の感覚を思い出す。あんな手つきで、もう一度この体に触れてくれたのなら。
「んっ……ふぁっ……っ!」
 頭の芯が熱を帯びたかと思うと、鳰は地面につま先を立て、全身を震わせて達していた。
 自分の荒い呼吸が、ひどく馬鹿げたものに聞こえる。いくら彼女のことを想像しても、ここにいるのは鳰一人だけだった。
「……ほんと、我ながら不毛っスね」
 べたつく液体で汚れた右手を見つめて、鳰は自嘲気味に笑った。


 食堂へ足を運ぶと、晴と東兎角がお盆を持って席につこうとしているところに居合わせた。購買で買ってきたプチメロンパンの袋を振りかざしながら、鳰は近づいていく。
「ねえさん方、今夕食っスか。ご一緒するっス」
「またお前か。何で毎回ここに来るんだ。あっち行け」
 さっそく兎角が捨て犬でも扱うように邪険に言い放つ。それを晴がたしなめた。
「まあまあ、兎角さん。食事は大勢でとった方が楽しいって言うよ?」
「そういうことっスねぇ。じゃあお邪魔するっス」
 フォローを受けて、遠慮なく鳰は兎角たちの向かい側に腰を落ち着ける。兎角は不満そうだったが、もう何も言ってこなかった。相変わらず一ノ瀬晴の尻に敷かれているみたいだ、と心中で笑う。
「ねえ、鳰。兎角さん、もう三日連続でカレーしか食べてないんだよ? どう思う?」
「あー、えっと。いいんじゃないっスか。一途っぽくて」
「一途だなんてつまらない理由じゃない。カレーはそれ一つで基本的な栄養はとれる。効率がいいから選んでるだけだ。別に好きな訳じゃない」
「えー? でも晴、さすがに三日連続だと飽きちゃうと思うな。好きなんだよね、カレー」
「好きじゃない。断固として好きじゃない」
 嬉々として話しかける晴に、満更でもなさそうに応じる兎角。
 二人のやりとりを見ていた鳰は、何だかもやもやとしたものが体の中に溜まっていくようだった。
 狩る側と狩られる側。本来ならまったく立場の違う二人が、こうも噛み合っていられるのはどうしてだろう、と思う。
 鳰は自分が無意識のうちに、そんな二人の関係を羨ましく感じていることに気づいた。
 百合目の視界に自分が入らないのは、お互いに立ち位置が違うから。鳰はそんな建前を並べて、無理矢理納得しようとしていた。
 でも晴と兎角は。綱渡りのような危うい関係ながらも、今みたいに隣合わせに存在している。
 一人の標的と、一人の守護者。……自分には、越えられない壁。
 ――羨ましい限りっスよ、一ノ瀬晴。
「そういえば、鳰もいつもそれ食べてるよね。飽きないの?」
 ふと晴が鳰の手にあるプチメロンパンを指して言ってきた。
「……そっスね。やっぱり、好きっスから」
 そう答えて、メロンパンを頬張る。
 乾いた甘味料の味が、舌を痺れさせた。


 理事長室のガラス張りの壁に、夜の闇が色濃く映り込んでいる。鳰は途方もない暗闇に向かって、自分が話しているような錯覚を覚えた。
 いつもと変わらない定時報告。内容もほとんど同じものだ。予告票が出された、誰々が一ノ瀬晴暗殺に乗り出した、失敗し退学させた。以上。
「報告は、これで終わりっス……」
 そう言って話を締めるが、鳰はその場から動かない。じっと正面の理事長席を見つめていた。口を開こうかどうか、考えあぐねている。
「鳰さん、まだ何かあるの?」
 呆れたように百合目が言う。
「言っておくけど、前みたいにゴミを渡すのだったら……」
「いえ、違うっス」
 鳰は百合目に向かって歩き出す。足取りにはわずかに迷いがあった。
「あの、手を――理事長の手だけを、少しだけ貸してほしいっス」
 口ごもった声でそう告げた。目線は足下を向いている。百合目の顔が見られなかった。
「どういう意味かしら?」
「言葉の通りの意味っス。今から数分間だけ、あなたの手をウチの好きにさせてください」
 訳の分からない要求だと言うことはわかっている。断られたって別に構わなかった。ただ藁にも縋るような気持ちで言ってみただけだ。
「……手の掛かる子ね。いいわ、こっちへ来なさい」
 だから百合目がそう言った時は少なからず驚いた。鳰は顔を上げて、間にあったデスクを越え百合目の前へ行く。
「乱暴なことはしてはダメよ」
 こちらに手を差し出す百合目。無表情で、何を考えているのかはわからない。ただ、これから鳰がしようとしていることは承知しているような気がした。
「はい。……お借りするっス」
 鳰はひざまずくと、その手を取った。
 まずはじっと見つめてみる。長く形が整っていた指、すべすべとしたてのひら。
 それをそっと自分の頬に当ててみる。温度はなく、ひんやりとしていた。
 いつか自分を撫でてくれたのは、この手だっただろうか。わからなかった。だが百合目にこうして触れられているという事実が、鳰の感情を徐々に高めていく。
 気づけば鳰は彼女の指を、口に含んでいた。
 ルビーのように赤いネイルで彩られた爪から、第一関節、第二関節に刻まれた細かな皺まで。丁寧に舌を伝わせていく。人差し指を十分堪能したら、次は中指へ。
「ふふ、まるで餌に食いつく家畜みたいね」
 頭上から声がした。張り付くような視線を頬の当たりに感じる。腹の奥深くで疼き始めた情欲を、鳰は抑えることができなかった。
 スカートの中に手を突っ込んで、タイツの上から足の間を乱暴に撫でつける。それだけでソコがじっとりと湿っているのがわかった。鳰の指はタイツもショーツも潜り抜けて直接その場所に触れた。
「ん……っ!」
 電撃にも似た甘い快楽。執拗に口の中の指に舌を這わせながら、自分の指を動かし続ける。断続的に水音が響いた。
「……ほんと、惨めじゃない。いい恰好ね、鳰さん」
 限界が見えてきたときだった。頭に何か触れるのがわかった。百合目のもう一方の手だ。
 ああ、確かに自分を撫でてくれたのは――この手だった。
 そう感じた瞬間に、目の前が霞んだ。きゅっと足に力が入ると同時に背中が仰け反り、達した。
 幸福感に満たされた曖昧な意識の中で、鳰は見てしまった。
 自分を見下ろす百合目の眼差し。彼女の瞳は鳰を映しているわけではなかった。楽しんでいたのだ。
 ――しもべが自分へと溺れ、その想いで焼き焦がれていく様を。
 急激に、体温が覚めていった。
「……じゃあ、失礼するっス」
 鳰は立ち上がって頭を軽く下げた。百合目は鳰の唾液にまみれた手をハンカチで拭っている。胸がちくりと痛んだ。そのまま部屋の出口へと向かう。
「鳰さん。次もいい報告、期待しているわ」
 扉に手をかけたとき、後ろから声を掛けられた。
 一瞬だけ立ち止まる。わかっていた。痛すぎるほどに。
 鳰はケージに放り込まれた虫けらで、彼女はそれを眺めて喜ぶ飼い主だった。いたずらに差し込まれた指先で、ただ踊らされているだけなのだ。
 自分たちの立ち位置は、そういうものだ。晴と兎角とは、やはり違う。
 じゃあ頭を撫でてくれた、あの優しい手つきも。所詮は鳰を手なずけるためだけだったのだろう。
 ――本当に酷い人っスね、あなたは。
 わかったところで、この檻から抜け出すことはできない。もうとっくに、囚われているのだから。
「……もちろんっスよ」
 歪んだ笑みを浮かべて、鳰は部屋の外へ出ていった。



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