悪魔のリドル
世界に満ちるもの
悪魔のリドル全カプ詰め合わせ
『故に、世界は自由に満ちている』
乙しえ
「こっちだ、乙哉!」
剣持しえなに先導されて、武智乙哉は走っていた。薄暗い地下道を一気に駆け抜ける。肩幅ほどしかなかった通路を抜けて広まった空間に出ると、二人は立ち止まりようやく息をつくことができた。
「はぁ、はぁ。カモフラージュもしてきたから、一時間くらいは稼げるだろう。その間に出来るだけ遠くまで行こう」
「そ、そうだね……」
少年院の看守たちは今頃、乙哉がいなくなったのにも気づかずのんびりしているはずだった。彼らはまんまと二度目の脱獄を許したのである。痛快な気分だった。
「……ねえ、しえな」
「ん? どうした」
「その……ありがとう」
乙哉がそう言うと、しえなは眼鏡をずりあげてそっぽを向いた。
「お前の口から素直なお礼を聞けるなんてな。そりゃあ脱獄も成功するわけだ」
少し動揺しているのが声で丸わかりだった。きっと照れているのだと、乙哉は苦笑する。
しえなはどこで習ったのか、ハッキングで施設の監視カメラの映像やセキュリティーをいじり、乙哉の脱獄を鮮やかに演出してみせた。彼女がいなかったら、今乙哉がこうやってここにいることはなかったはずだ。
「さあ、時間がない。さっさと移動……」
歩きだしたしえなの背中を、乙哉は抱きしめた。どうしても、堪えきれなかったのだ。
「……しえな。しえな、しえな……」
いつも胸の内で呼んでいた名前が、溢れ出てしまう。何度も重ね合わせた体温を、今、腕の中に感じている。夢などではなかった。
――ああ、しえなだ。しえなが、ここにいる。
「……そんなに呼ぶなよ。ボクは、確かにボクだよ」
腕を解いて、しえなはくるりと乙哉と向き合う。
「……遅くなって、悪かったな」
気が抜けたように彼女の表情が和らぐ。瞳がほんのりと潤って見えたのは、おそらく気のせいではないだろう。
しばらく見つめ合った後、しえなは再び歩きだした。
「さあ、行こう。これからやることが山積みだぞ」
「えっ? やることって?」
首を傾げる乙哉に、しえなは肩越しににやりと笑った。
「ミョウジョウ学園を叩く。そのための情報収集だ。乙哉だって、このままじゃ終われないだろう?」
そうか、と気づいた。施設に捕らわれて、無意識のうちに全ては終わってしまったのだと乙哉は考えていたようだ。
だけど違う。これはまだ、始まりに過ぎないのだった。
「……そうだね。よーし、やる気出てきた! 張り切って行こう!」
「いきなり元気になるなよ。……あと、ひどい格好だなそれ。隠れ家に着いたら服があるからさっさと着替えろよ」
乙哉の囚人服を見てしえなが言う。確かに、ひどい格好だった。
「えーっ。しえなのサイズだったら、ちょっと胸がキツイんじゃないかなぁ」
「……おい。何か聞き捨てならないことを言わなかったか?」
「んーん。なーんにも言ってないよぉ」
いつの間にか、二つの手は自然のままに繋がれているのだった。目の前に広がる自由に向かって、二人は一斉に駆け出して行った。
『故に、世界は罪と罰に満ちている』
ちたひつ
「お世話になりました」
病院の関係者にそう声を掛けて、生田目千足は病院から外へ出ていった。桐ヶ谷柩は、慌ててその背中を追う。
隣に並んだものの、どうしても彼女の顔を見ることができない。柩は仕方なく空を見上げた。
いい天気だった。陽気な日差しがきらきらと地上に降り注ぎ、空は雲一つなく青く澄み渡っている。だが柩の心はもやもやと曇っているようだった。
――千足さんは、これからどうするんだろう。
彼女と病室で過ごしている間、ずっと抱え込んでいた疑問。聞きたかったが、結局今日までそれも出来ずにいた。
このまま彼女は柩のことなど忘れて、穏やかな生活に戻っていくのかもしれない。あるいは。
――柩を、このまま殺すか。
ぎゅっと手のひらを握りしめる。それも仕方のないことだった。彼女の恩師の娘を死に追いやったのは自分なのだ。それに報いるために千足は黒組にまで入り込んだのだから。
「……あ、あの……千足さ……」
辿々しく声をかけると、千足がこちらを振り向いた。
「なあ、桐ヶ谷」
「は、はい。何ですか……?」
「このまま、一緒に逃げよう」
彼女が放った言葉に、柩は思わずぽかんとしてしまう。
「前に言っていただろう。誰も私たちを知らない遠い国で、浜辺の近くにある家に二人で住む。そこで犬を飼って、飽きるまでずっと一緒に海を眺める――だったかな」
それは確かにミョウジョウ学園にいたとき、柩が千足に語った夢だった。だが夢は所詮夢に過ぎないと思い、ほとんど冗談交じりだった。
今、その夢が叶おうとしているというのだろうか。
「で、でも、千足さんはそれでいいんですか……?」
そう聞き返していた。そんなことが、自分に許されるのだろうか。そして千足は、それで納得できるのか。
「……確かに君は罪深いかもしれない。だがそれでも私は、君と離れたくないんだ。こんな望みを持つ私も、立派な罪人だな」
千足はひざまずき、柩の手を取った。
「私と一緒にいて欲しい。これからの一生を、私と共に過ごしてくれないか。それが君の罰であり、私の罰だ」
涙が溢れた。それが罰であるとするなら、なんて甘美な罰なのだろう。
柩は赦され、救われたのだ。たった一人の、少女によって。
涙を拭って、柩は言う。
「……もう。千足さんは本当に、キザな人ですね」
「そうかな。だとしたら多分、想い人の前で格好をつけたいのかもしれないな」
だから、君のせいだよ。――柩。
名前を呼ばれた。また泣きそうになってしまうのを堪えて、柩は千足に笑いかけた。
「さて。これから長い旅になるぞ。まずはどこの国へ行こうか」
「どこでもいいですよ。ボクは千足さんがいてくれるだけでいいですから」
「そうか。君だって随分キザなことを言うじゃないか」
「ふふ、千足さんのせいですね」
「はは、そうかもな」
いつかたどり着く楽園に想いを馳せて。
二人の旅は静かに、今始まりを告げた。
『故に、世界は青春に満ちている』
すずこう
拳銃を抱えて、神長香子はため息をついていた。背をつけた壁の向こう側を、神父やシスターの格好をした「ホーム」の構成員たちが通り過ぎていく。彼らは香子のことを追っているのだ。
暗殺者を辞めるという決意は、黒組を抜けた後も胸に留まり続けた。だから香子は、自力でホームから抜け出すことにしたのだ。
もちろん、ホームの連中は裏切り者を絶対に許さない。捕まれば殺される。それはわかりすぎるほどわかっていた。
――聞いた話だと、ホームから生きて逃げ出せた者は一人もいないという。
連中の一人が香子に気づいた。香子は何発か発砲しながら走り出す。
――だが私は、必ず生き延びてみせる。イレーナ先輩、見ていてください。
首から下げている十字架を握りしめる。
死は人生の終末ではない。生涯の完成である。そんな言葉をイレーナは語った。
それならば、香子の完成はまだ先にあるはずだった。今じゃない。
「動くなッ!」
路地に差し掛かったとき、曲がり角の先から銃を突きつけられた。複数の男たちの眼光が刺さる。
「終わりだな。観念しろ」
「くっ……!」
銃を持った男の指が引き金に掛かる。こんなところで終わるわけにはいかなかった。香子は一か八かで駆け出そうとする。
「うわっ!」
そのとき、足下に複数の弾丸がバラまかれ、男たちが怯んだ。その隙に物陰から飛び出してきた人影が、香子の腕を引いて連れ出していく。
香子は驚いた。
「――首藤!?」
「ご無沙汰じゃのう、香子ちゃん。間に合ってよかった」
それは黒組にいた際、寮の同室だった首藤涼だった。しかし何故彼女がここにいるのだ。
「首藤、どういうつもりだ? 何でお前がここにいる?」
「察しが悪いのう。わしは香子ちゃんを助けにきた。ただそれだけじゃ」
通りかかった十字路の横から追っ手が現れる。涼は手にしたサブマシンガンで威嚇射撃しつつ足を早めた。
「意味がわからないな。そんなことして、お前に何のメリットがあるんだ」
「メリットなどと、そんな計算高い考えはわしにはないよ。ただ」
「……ただ?」
ちらりと涼は香子を見る。その顔には心底楽しそうな笑みが浮かんでいた。殺伐とした状況で、場違いなほど陽気な表情だ。
「これもわしの青春の一ページというわけじゃな。……香子ちゃん、悪いが少しだけ付き合ってくれんか?」
唖然とする。訳がわからなかった。
だが、そんな突飛な言い草もまた、彼女らしいというか。
気づけば、香子もまた微笑んでいた。
「仕方ない。さっき助けられた恩義もあるしな。とことん付き合ってやる」
――これが首藤の青春だというならば。ひょっとしたらそれは、私にとっても同じことかもしれない。
そんなバカな考えが頭をよぎったのだった。
「さすが香子ちゃんじゃ。惚れ直したぞ」
「軽口はいいから、気を抜くな。後ろからまだ何人か来てるぞ」
「おう、わかっとるわかっとる」
深夜の暗闇に銃声が響きわたる。不穏なはずのそれは、まるで何かの始まりを告げる鐘の音のようにも、香子は感じた。
『故に、世界は幸福に満ちている』
春伊
「ただいまぁーっと」
自宅に玄関をくぐった寒河江春紀は靴を脱ぎながらそう言った。工事現場の仕事を終え、たった今帰ってきたところだ。何とか夕食には間に合ったようだった。
「姉ちゃん、おかえり!」
一番年長者の妹が出迎えてくれる。どこかはしゃいだ様子の彼女は言った。
「伊介さん、もう来てるよ。夜ご飯の準備、手伝ってもらってるの」
それを聞いて、春紀の表情も緩む。
そっか。今日はあいつが来る日だったもんな。仕事の疲れも一気に吹き飛んだような気がした。
妹と一緒に台所へと向かう。何だかいつもより、その空間は賑やかだった。犬飼伊介と妹や弟の声が聞こえてくる。
「伊介姉ちゃん、ちょっと量多くないこれ?」
「へーきへーき。あんたたち育ち盛りなんだから、これくらいの方が丁度いいでしょぉ?」
「そのエプロン似合わないねぇ、いーちゃん」
「それ今関係なくなぁい? それといーちゃんじゃなくて、伊介さまよ」
火に掛けられた鍋を前に、わいわいとそんな会話をしている。どうやら今夜はカレーのようだ。
「おう、ただいま帰ったよ」
春紀が声を掛けるとみんなが一斉に振り向いた。弟妹たちは顔を綻ばせる。
「姉ちゃんおかえりぃ! 今日はカレーだよ!」
「知ってるよ。おいしそうな匂いしてるなぁ」
「ちょっと、あんたも手伝いなさいよ。ほら、さっさと全員分のお皿並べて」
「へいへーい、了解」
熊のワンポイント入りのエプロンを付けた伊介に言われて、春紀は居間の丸テーブルに食器を並べ始める。
春紀の家に来るようになってから、からきしダメだった伊介の料理の腕は随分上達したみたいだった。きっと裏で努力を重ねたのだろう。何度も試行錯誤を重ねている彼女の姿を想像して、思わず笑ってしまう。
「何一人で笑ってるわけぇ? 気持ち悪いなぁ」
軽口を叩きながら、鍋を持った伊介が現れる。それを合図にぞろぞろと居間にみんなが集まってきた。
みんなでテーブルを囲い、カレーをよそって手を合わせたら夕食が始まる。今日はいつもより騒がしい。伊介がいるからだ。
「いーちゃん、おいしいよ! お料理すごく上手になったね!」
「当然でしょ、伊介に不可能はないの。あと、いーちゃんじゃなくて伊介さまだっての」
「いーちゃん、いーちゃん、いーちゃん!」
「何か連呼されてるんだけどぉ? ムカつくぅ」
伊介はすっかりこの場に馴染んでいた。下の子たちもあっという間に彼女に懐き、この時間を心から楽しんでいるみたいだ。
何だか、と春紀は思う。何だか、家族って感じだな。
まるでぼんやりと温かい光の中に包まれているような、そんな感覚。
それを言葉に表すとしたら、きっとこれがふさわしいのだろう。
――多分、幸せとか、何とか。
「姉ちゃん?」
妹が不思議そうに声を掛けてきた。どうやらぼんやりしていたらしい。
「ああ、悪い悪い。あんまりにも美味しいからうっとりしちまってさぁ」
「見え透いたお世辞ねぇ。だったらちゃんとお代わりしなさいよ。まだたくさんあるんだから」
伊介が舌を出す。しかし満更でもなさそうなのがバレバレで、春紀は吹き出した。
「はは、そうだな。なぁ、伊介さま」
「何よ。どうかした?」
――ここにいてくれて、ありがとう。
そう言ってしまおうか迷ったが、結局やめた。それはみんなが眠ってから、二人きりになった時に伝えればいいのだ。
「そのエプロン、本当に似合わないなぁって思ってさ」
「……あんた、後で絶対シメるからね?」
湧き上がった笑い声が、寒河江家の食卓を満たしていった。
『故に、世界は未知に満ちている』
すみまひしん
「わぁ……」
目の前に広がる風景に、番場真昼は思わず息を呑んだ。横に立つ英純恋子が笑う。
「綺麗でしょう。ここは英家が管理している個人的な花園ですわ。世界中から、花を取り寄せてありますの」
周囲を森で囲まれた広い空間。そこには色とりどりの花たちが咲き誇っている。自然に近い環境だからか、みんなしゃんと顔を上げて元気そうに太陽の光を浴びていた。
「さあ、番場さん。行きましょう」
真昼は純恋子に手を引かれて、花の楽園へと足を踏み入れる。心なしか、足取りはいつもより軽かった。
「英さん、この花は何て言う、ますか……?」
一つ一つの花の前にしゃがみ込んでは、真昼はそう尋ねた。純恋子は名前とちょっとした説明を丁寧に返してくれる。
「……世界にはこんなにお花があるんですね……」
しばらくして、真昼は並んだ花を立ったまま見下ろして言った。今までは名前も、あることさえもわからなかったものたち。それが今、目の前に、両手で抱えきれないほど広がっているのだ。
「お気に召しました?」
「はい……すごく素敵、です」
ふと真昼は純恋子に歩み寄ると、ややぎこちなくその手を取った。
「番場さん……?」
「英さん……その、色々と、ありがとう……」
ずっと伝えられずにいた想いを、ようやく言葉に表すことができた。
――ねえ、番場さん。あなたさえよければ、わたくしと一緒に暮らしていただけないかしら?
黒組が解散になって、突如真昼の前に現れた純恋子がそう言ってきたのは少し前のことだ。
唐突な申し出に随分と驚いてはいたが、不思議ともう心を固めている自分がいた。
英さんと、もっと一緒にいたい。そう思った。ミョウジョウ学園での彼女との日々は、真昼にとってかけがえのないものとなっていたのだ。そんな日々が続くことが、もし許されるというのなら。
(お前のことだろ? お前で決めろよ)
相談してみると、真夜はあっけなくそう言った。てっきり反対されると思っていたので、肩透かしを食わされた気持ちである。
(もう何も縛るものなんてねぇんだ。何をしようがお前の勝手だし、オレは賛成するぜ。それに……)
珍しく口ごもる真夜。それに? と聞き返すと、バツが悪そうに口を割った。
(オレも純恋子のことは、その……キライじゃねぇからな)
どうやらそれが本心らしく、思わず真昼は吹き出してしまった。
「……番場さん」
名前を呼ばれて、我に返った。純恋子は真昼の手を握り返し、指まで絡める。二人の両手が繋がった。
「お礼なら、わたくしの方が言うべきですわ。わたくし、本当にあなたのことが好きで好きで、仕方がないんですから」
真昼は赤くなった。そんな真っ直ぐな言葉を向けられたのは初めてのことだ。
「番場さんはわたくしのことを、どう思ってらっしゃるの……?」
伏せられた目、密かに震えた指先から、彼女の不安が読みとれた。
そんなのは、杞憂だ。気づけば真昼は、自分から彼女に笑い掛けている。
「私も、英さんが――純恋子さんが好き」
迷いなく伝えられた言葉に、純恋子ははっと顔を上げて、少しだけ泣きそうな表情で笑った。
「……ありがとう」
風が吹き、花たちがゆらゆらと頭を垂れた。まるで二人のこれからを、祝福してくれているかのように。
「そろそろ行きましょうか。屋敷についたら、お茶を飲みましょう。特製のお菓子を用意させますわ」
「えっ。お菓子は、その、ちょっと……」
「あら、また真夜さんですの?」
「……お前は太りやすいんだから無駄に食うなって、今……」
「ふふ。きっと抜け駆けされそうで拗ねているんだわ。ちゃんと真夜さんの分も用意しておきますから、それなら大丈夫でしょう?」
歩き出しながら純恋子は、無邪気な子供のようにくるくると回ってみせる。意外な一面だった。
「さあ、番場さん。こちらへ」
「……はい」
まだ知らない世界が、目の前に広がっている。もっと知りたいと思う。世界のことも――彼女のことも。
真昼は純恋子に向かって、ゆっくりと歩み寄っていくのだった。
『故に、世界は出会いと別れに満ちている』
理事鳰
桜が咲いていた。左右一列に並んだ木々たちが一様に淡紅色に染め上がった景色は、なかなか立派なものだった。
「綺麗っスねぇ」
そんな風景の中を歩きながら、走り鳰はそう言った。この桜並木は、ミョウジョウ学園の中でも特に人気の高いスポットなのだ。だが今日は週末だからか、人の姿は自分たち以外見られない。
「本当。もうすっかり春になってしまったのねぇ」
隣を歩くこの学園の理事長、百合目一が控えめに微笑んだ。綺麗だ、と鳰は今度こそ心から思う。降り注ぐ日の下で彼女の姿を見ることなど滅多にないことだから、桜よりもそちらの方に目を奪われているくらいだった。
「あら、鳰さん。どうかしたのかしら」
視線に気がついた百合がこちらを向く。鳰は慌てて笑顔を繕った。
「別に、何でもないっスよ?」
「そう? 先ほどからずっと、私のことをちらちらと見ていたじゃない」
バレていた。バツが悪くなって、とりあえず話題を変えてみることにする。
「理事長こそ、こんな所に誘ってくれるなんて、何かあったんスか?」
理事長室へいつも通り鳰が赴くと、百合は突然「ちょっと外の空気を吸いに行かないかしら?」と言ってきたのだ。あまりにも珍しいことなので、今日は槍か季節外れの雪でも降るのではないかと心配になったくらいだった。
そんな鳰の内心を読みとってか、百合は可笑しそうに口元を綻ばせた。
「私だって、たまにはあなたを外に連れ出したいのよ。気分転換は大事だわ。それに」
「それに?」
「近頃鳰さん、元気がないみたいだから」
不意打ちの言葉に、思わず目を丸くしてしまう。どうやらこの人は、何もかもお見通しのようだった。苦笑して、鳰は口を開く。
「……別段、理事長にお話するようなことじゃないっスよ。つまらないことっスから」
「そうかしら」
百合が立ち止まる。同時に鳰も足を止めると、彼女の手が頬に伸びてきた。
「私はあなたのことなら、何でも知っておきたいのだけど。……それでも、つまらないことかしら」
頬を撫でる彼女の手。まっすぐに注がれる温かい眼差し。春の陽気が、心の中にまで入り込んできてしまったかのようだ。
――ほんと、この人には敵わないっスね。
鳰は改めて口を開く。
「最近、ちょっと思っちゃうってだけっス。……黒組も、終わったんだなぁって」
別に、今更寂しいなどと思うほど柔なつもりはない。
だけどふとしたときに、黒組にいた面々の顔が、彼らと過ごした日々が頭をよぎるのだ。楽しかったかどうかさえわからないのに、今ではとても懐かしく感じてしまう。
この感覚を何というのだろう。少しだけ胸がキュッと狭くなるような、この想いは。
多分、鳰はわかっていた。ただ、自分でも認めたくなかったのだ。
ふと百合の手が、今度は鳰の頭に触れる。優しかった。どこまでも優しい手つきだった。
「……そうね。終わってしまったわね」
一瞬だけ、桜の花に埋もれた景色が淡くなった。
ああ、そうかとようやく気がついた。
――ウチは黒組のことが、案外嫌いじゃなかったんスね。
風が吹きつけて、色づいた花びらが空へと舞い上がっていく。なんだか、清々しい気分だった。
「もういいの?」
百合が尋ねてくる。鳰は頷いた。
「はい、もういいっス。理事長、少し歩きませんか?」
「ええ、そうね」
百合が鳰の手を取る。鳰は彼女の顔を見上げて、それから微笑んだ。
「あれれ、いいんスか理事長。誰かに見られるかもしれないっスよ?」
「いいのよ、今はこうしていたいの。それに、今更隠し立てするような仲でもないでしょう?」
「はは、そうっスね。じゃあもっとくっつくってのはどうっスか?」
そう言って鳰は積極的に腕を絡め、これ以上ないくらい密着する。百合が目を細める。
「あらあら。じゃあ、しっかりエスコートしなくてはね」
「へへ、お願いするっス」
桜が咲いていた。寄り添い合った二人は春の訪れを告げるその花にまみれながら、その向こう側まで歩いていくのだった。
『故に、世界は赦しに満ちている』
兎晴
「兎角さん、これってここでいいんだっけ?」
段ボールを持ってこちらへやってきた一ノ瀬晴が尋ねてきた。
東兎角は戸棚の組立に奮闘しつつ頷く。
「ああ、それは衣服が入っているからここでいい。というか、横にでかでかと書いてあるだろう」
段ボールの側面には晴の丸っこい字で「お洋服」としっかり表記されていた。それを見つけた彼女は舌を出しておどける。
「あっ、ほんとだ。自分で書いたのに忘れてた」
彼女は段ボールから衣服を取り出して、先ほど家具屋で買ってきたチェストの中に詰め込んでいく。一つ一つ丁寧に畳む几帳面さに苦笑しつつ、兎角は何となく周りを見渡してみる。
つい先日までがらんどうだった部屋は、テーブルが置かれ棚が置かれ、窓にはカーテンが付けられてすっかり生活できそうなスペースに仕上がっている。ちなみに家具選びに疎い兎角はほとんどの選別を晴に任せたため、部屋は彼女好みのファンシーなものになっていた。だが、それも悪くないと兎角は思う。
小さな1LDKのマンションの一室。今日から自分は晴と、ここで一緒に暮らすのだ。
――兎角さん、これから同じところに住まない?
胸の傷が完治して退院した晴は、真っ先に兎角にそう言ってきた。
もちろん兎角にとってはこれ以上ない申し出だった。しかしどうしてもそれには負い目が付きまとう。
自分が晴という人間に惹かれたのは、彼女の持つプライマーの能力のせいではない。そんなことを証明するために、兎角は晴を殺しかけた。
――私は、許されないようなことをした。お前の傍に、いていいはずがない。
兎角がそう言うと、驚いたことに晴は満面に微笑んでみせた。そして兎角を抱きしめ、静かな声で告げたのだ。
――晴は赦すよ。だから、これからずっと晴と一緒にいてくれませんか?
その瞬間に、ふわりと何かの香りが舞い上がったのを覚えている。埃っぽくて、思わずくしゃみが出てしまいそうな。そう、日向の香りだった。
胸の中で重くつかえていたものが、一瞬で溶かされてしまったような気がした。
「はぁっ、疲れたぁ」
しばらくして、晴がラグマットの敷かれた床に横たわった。
「荷物、思ったより多くなっちゃってたね。もう置くとこないよぉ」
「ほとんどお前が買ったものだろう。ぬいぐるみとかマグカップとか、だから少し量を減らせと言ったのに」
「んー、だって物に囲まれてた方が楽しい感じがすると思って」
指を合わせて、子供のように言い訳する彼女。兎角は近くに座り込み、その髪を指先でそっと梳いてやる。晴は心地よさそうに目を閉じた。
「……ねえ、兎角さん」
「何だ?」
「晴は、ここにいてもいいのかな」
唐突な言葉に、兎角はじっと晴を見つめた。彼女は続ける。
「晴を守るために、本当にたくさんの人が死んじゃったから。……晴だけ、幸せになっちゃってもいいのかなって、思えてきちゃって」
彼女は目を閉じてじっとしている。きっと様々な想いが内面を渦巻いているのだろう。
――晴のせいで、みんな死んでしまった。それなのに晴だけこのまま生き永らえてもいいのだろうか。普通の女の子として、これからを過ごしてもいいのだろうか。
声が聞こえる。彼女の苦悩が。
兎角は立ち上がり、寝転がる彼女に覆い被さった。
「兎角さ……?」
そして彼女が目を開けるのと同時に、その唇に自分の唇を重ねた。どこまでも柔らかくて、繊細な感触。傷つけないように優しく、そっと触れてやる。
「と、兎角さん……?」
「私は、赦すよ」
そう言っていた。のぞき込んでいた彼女の瞳が大きく見開いた。
「誰が何と言おうと、私は晴――お前を赦す。世界中が敵に回ったとしても、私だけは唯一の味方でいてやる。それはプライマーの能力のせいなんかじゃなく、全て私が決めた、私自身の意志だ」
だから、と兎角は続ける。自然と、顔が綻んだ。
「だからこれからずっと、私と一緒にいてくれないか?」
少しだけ間が空いた。それから嬉しそうに細められた晴の眼差しは、涙で濡れて光っていた。
「……ずるいよ、兎角。それ、前に晴が言ったことじゃない」
「ああ。堂々と使い回させてもらった。ダメだったか?」
「ううん、全然ダメじゃない」
窓からの日差しに照らされて、彼女の笑顔は鮮やかに輝いていた。何よりも綺麗に笑う彼女が、ただひたすらに愛おしくなってしまう。
「これからよろしくね、兎角」
晴が言う。兎角は言葉ではなく再び口づけで、彼女に想いを告げるのだった。