悪魔のリドル


TOP


わたがし

乙しえ




 剣持しえなはそわそわと落ち着かないまま立っていた。
 しきりに腕時計に目をやる。待ち合わせの時間までまだ二十分もあった。
 続けて、周りを見渡す。会場の近くにあるコンビニの前に集合、ということだったので、ここで待ち合わせ場所は間違いないはずだった。わかっていたが、確認するのはもう何度目だろう。
 ええい、落ち着け、としえなは一度深呼吸してみる。緊張する必要なんて、どこにもないじゃないか。デートだって、初めてではないはずだ。
 今日しえなは、大きな自然公園で開催されるお祭りに出向くことになっていた。何でも結構な規模で、屋台もかなりの数が並ぶようだ。
 この日のために、しえなは浴衣を買ったのだった。薄い桃色の布地に、鮮やかな赤い花が散りばめられたものだ。そのついでというわけではないが、普段はしないネイルやペディキュアをつけたり、薄く化粧をしたりもしていた。
 別に、祭りだからといって浮かれているのではない。
 だけど、今待ち合わせている相手のためというわけでも、もちろんない。絶対ない、としえなは必要もないのに頭の中でそんな言い訳を並べていた。
「おーい! しえなーっ!」
 呼びかけられて顔を上げると、待ち合わせていた相手――武智乙哉がこちらに向かってくるのが見えた。時計を見ると、待ち合わせ十分前だった。意外に律儀である。
「ごめんごめん! 待たせちゃった?」
 そう言って駆け寄ってきた乙哉は、紺色で水仙の柄の浴衣を着ていた。凛としたデザインがよく似合っていて、思わずしえなは少しの間だけ見惚れてしまう。
「いや、ボクもさっき来たところだから」
「そっか、よかった。じゃあ行こっか」
 乙哉がしえなの手を引いて歩き出す。最近はどこに行くにもこうしてくれる。それなりにデートの回数は重ねているのだ。
 乙哉に付いていきながら、しえなは密かに目を伏せていた。
 浴衣のこととか、触れてくれなかったな……。いや、別に誉められたかったわけじゃないし、まあ自己満足の範疇だし。そう思ってもやはり落胆は残る。
「あ、そうだ」
 不意に乙哉が振り向いた。
「しえなちゃんのその浴衣、すっごい可愛いね。似合ってるよ。それに花の柄と同じ色のネイルもペディキュアも。あ、化粧をすると少し大人っぽくなるなぁ」
 さらりと言って、にっこり笑う。どうやら最初から気づいていたようだ。
「それって、もしかしてあたしのためかな?」
「べ、別に。今日はお祭りだから、ちょっとはしゃいだだけだよ」
「あ、そうなの? しえなも子供だなぁ」
「うるさいな。前を見ろ前を」
 口ではそう言っていても、しえなは笑みを堪えることができなかった。乙哉の後ろで、口元を綻ばせる。
 足取りが軽い。しえなは繋がれている乙哉の手を、きゅっと強く握り返した。


 お祭りの会場は人で溢れていた。老若男女様々な人々が笑顔を携え、屋台と屋台の間を行き来している。楽しそうな話し声が、何かが焼けるいい匂いと共に満ち溢れていた。
 そんな中をしえなは、乙哉に手を引かれると言うよりは引っ張られるような形で歩いていた。
「あっ! しえなしえな! あれ美味しそう!」
「わわっ! 金魚すくいだ! ちょっと一回だけやろうよ!」
「スマートボール、あたし得意なんだ。やってかない?」
 こんな感じで、乙哉は気になる屋台に目を付けてはせわしなく動き回るのだ。まるで子供だった。
 まったく、としえなは呆れつつも、実は気づいている。手を取って前を歩く彼女が、しっかりしえなの付いてやすい速度に調節してくれていることを。その証拠に、彼女はさりげなく何度かこちらを振り向くのだ。
 子供というよりは、飼い主の歩くペースに合わせる飼い犬だな、としえなは微笑ましくなる。
「ん? どうしたのしえな?」
 スマートボールを終えた乙哉が、不思議そうな顔でのぞき込んでくる。
「いや、何でもない。上手だなと思ってな」
「でしょー! あたしスマートボール界の女王って、裏では呼ばれてるからさぁ」
「はは、言ってろ」
 乙哉の手を、今度は自分から取る。何となく、彼女に対してこちらからも一歩踏み出したくなった。
「……しえな?」
 案の定きょとんとされたので、用意しておいた口実を言う。
「……かき氷、食べに行かないか? ボクのおごりだ」
「おー! いいねぇ! お祭りの定番だねぇ!」
 ばくだん焼きだのりんご飴だのと手当たり次第に食べていた癖に、乙哉は目を輝かせる。食い意地が張っているところも犬そっくりだった。
 かき氷の屋台まで行って、二つ買う。しえなはメロンのシロップ、乙哉はブルーハワイ味だった。
「くぅー! やっぱこれだよねぇ!」
「おい、はしゃぐなって。落としても、もう買ってやらないぞ」
「そんなことしませんよーだ。あっ、しえな」
 乙哉の表情が緩む。からかうときの顔だった。
「舌、舌! 緑色になってるよ! あはは、変なのぉ」
「なっ。そういうお前だって、真っ青だぞ!」
 お互いの舌を指差して言い合う。そんな状況自体がどこか可笑しくて、しえなは吹き出してしまった。釣られたように乙哉も笑う。
 すっかり二人は、お祭りの喧噪の中に溶け込んでいるのだった。


「そういえば、そろそろ花火の時間だな」
 乙哉に買ってもらったラムネを飲みながら、しえなは言った。さりげなくを装ってはいたが、実は頭の端ではそのことばかり考えていたのである。
 屋台巡りを堪能した後は、二人で花火を見上げて情緒に浸る。それがしえなにとって理想的なお祭りのデートプランだった。
「えっ、もうそんな時間?」
 隣でアメリカンドッグにかぶりついていた乙哉が振り向く。もしかして、彼女もそのことを考えていてくれたのだろうか。
「花火の前に、締めのアレ、食べとかないと!」
 がっくりきた。彼女のお祭りとは、あくまで食べ物主体に回っているようだ。アレが何かを聞き返す気力も湧いてこない。
「おい、乙哉。そこは見物の場所取りの話とか、するんじゃないのか」
「あ。えへへ、そうだね。どこで見ようか」
「まったく。ムードも情緒も欠片もないな……」
 呆れてそう呟いたときだった。
 甲高い泣き声が聞こえてきたのでそちらを見ると、小さな女の子が道の真ん中で泣きじゃくっていた。風船を握りしめているが、両親の手ではない。周りにそれらしい人もいないから、迷子だろうか。通りかかる人々も気にかけてはいるが、話しかけようとはしない。
 まったく、仕方ないな。しえなは歩み寄ろうとしたが、それより早く乙哉が動いていた。
 女の子の前にしゃがみ込んで話しかける。
「ねえ、君。どうかしたの? お父さんとお母さんは?」
「……い、いなくなっちゃって……」
「そっか。じゃあお姉ちゃんと一緒に、迷子センターまで行こうか。お母さんたちが、そこにいるかもしれないからね」
 乙哉が頭を撫でてにっこりと微笑みかけてやると、女の子はぴたりと泣き止んで素直に頷いた。こいつのジゴロ能力はこんな小さな子にも通用するのか、としえなは感心する。
「ごめん、しえな。この子送り届けてくるから、ちょっとここで待ってて」
「ああ、いいよ」
「ありがと。すぐ戻るから」
 乙哉は女の子の手を引いて、迷子センターの方角へ歩いていった。しえなは道端の街路樹に背を預けて、待つことにする。
 少し夜も深まってきたからか、会場の通りを歩く人混みも大分落ち着いていた。もしくはみんな、花火のよく見える場所に今から移動しているのかもしれない。
 それにしても、と先ほどの乙哉を思い返す。あいつ、意外と小さな子の扱いに慣れているんだな。
 普段子供に接する機会もないからか、ああいう乙哉を見るのは少し新鮮だった。こういう場所でないと見られなかっただろう。
 ――子供が出来たら、ああいう感じなのかな。
 ふと、子供を間に挟んで手を繋ぐ自分と乙哉の姿が浮かんできて、慌てて首を振るう。
 一体何を考えているんだ、ボクは。大体、女同士じゃ子供も出来ないだろうに。
 もう何も考えまいと決意して顔を上げる。
 すると、誰かが前に立っていた。
「君、可愛いね。一人? 良かったら俺らと回らない?」
 柄の悪い連中だった。今時アロハシャツなど着た軽薄そうな男を筆頭に、三人ほどがしえなの周りを取り囲んでいる。祭りにはこういう奴らも集まるんだったな、とため息をつきたくなる。
「いや、待ってる人がいるんで。悪いけど他を当たってくれないか」
「そんなこと言わないでさぁ。ほら、一緒に花火見るのとかどうよ?」
 酒臭い息を吐き掛けられて、不快感が増した。それももう予約済みだ。顔を背ける。
「結構だ。もういいから向こうへ行ってくれ」
「いいじゃんいいじゃん。君のこと、しっかり楽しませてやるからさ」
 男の一人に腕を掴まれて、無理矢理連れて行かれそうになる。強引すぎる行為にカチンと来た。にやにやと嫌らしい目つきで見てくるのも癇に障る。これもいじめの範疇に相違ない。
「ちょっと、いい加減に……」
 言い返そうとした瞬間、しえなの腕を掴んでいた男が吹き飛んだ。コンクリートの地面に頭から投げ出される。
「――あんたらさ。人の彼女に何してるわけ?」
 いつの間にか、拳を構えた乙哉が近くに立っていた。どうやらさっきの男を殴り飛ばしたらしい。
「な、何だお前!」
「何だお前、じゃねえっつの。質問に質問で返すな、タコ」
 狼狽する相手を睨む乙哉が、心底怒っているのが伝わってくる。眼光が鋭かった。
「ああん? 女だからって調子乗ってるとタダじゃおかねえぞコラァ!」
「男だからって舞い上がってんじゃねえよ、ダサアロハ」
 掴み掛かってきたアロハの男に、乙哉が腕を振るった。すると、一瞬のうちに着ていたアロハシャツがズタズタに引き裂かれる。彼女の手には、いつの間にか刃の大きなハサミが握られていた。
「次は鼻――削ぎ落とすよ?」
 シャキン、と刃を合わせる音が冷たく鳴り響く。
「う、うわあああっ!」
 途端に男たちは青くなり、早足に退散していった。
 惨めな後ろ姿を見送ったのち、乙哉がしえなを向いた。
「大丈夫? 怪我とかない?」
「……ああ。悪いな、助かった」
「しえなのためだったら、これくらい朝飯前だよ」
 そっと乙哉の手が頬に触れてくる。別に怖かったわけではないが、それで体の力が抜けるのがわかった。
「というか、乙哉。お前はどこからハサミを出したんだ」
「え? やだなぁ、しえな。いつも常備してるに決まってるじゃん」
「ハサミを化粧ポーチの類と一緒にするな!」
 元のやりとりが戻ってきた。結局どんな不穏な事態も、この空気を壊すには値しないようだ。だから、安心できる。
「じゃあ行こうか。花火、始まっちゃうよ」
 乙哉が手を差し出してくる。
「……うん。ありがと」
 その手を掴んで、小さく頷いた。


 ドーン、と軽快な音を鳴らして。夜空に大きく花火が上がった。至る所から感嘆の声が聞こえる。
「たーまやー!」
 乙哉が叫ぶ。その合間に、手に持ったふわふわしたものを口に含んでいた。
 わたがしだ。先ほど言っていた締めのアレとは、どうやらこれのことらしい。
 しえなも買ってもらったわたがしを食べてみる。程良い甘さが口に広がり、すぐに舌の上で溶けていく。改めて食べてみると、おいしいものだ。
「あ、また上がるよ! たまーやー!」
 再び咲いた花火に向かって、乙哉が声を上げる。その楽しそうな横顔を見て、来てよかったなと心から思った。
 上がっては消え、上がっては消えを繰り返す花火を見上げる。このままでも十分ロマンチックな祭りの終わりだった。
 だが、密かに考えていたことがあった。瞬間的な花火の光に照らされながら――乙哉と。
 さすがにそれは夢を見すぎかな。考えを振り払って花火に集中しようとすると、視線に気づいた。乙哉がじっとこちらを見ている。
「ん? どうした、乙哉」
「あ、いやいや。……ねえ、しえな。ちょっとあっち行かない?」
 木々が立ち並んだ人気のない所を指して言う。どう考えても花火鑑賞に向いた場所ではない。
「何だ、あそこに何かあるのか」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけどさ。ダメ?」
「まあ、いいけど」
 怪訝に思いながらも先導する乙哉に付いていく。木々が邪魔しているせいか、そこには人がまったくいなかった。
「ここならいいかな」
 乙哉が立ち止まる。
「急にどうしたんだ、おと……」
 振り返った彼女に、抱き寄せられた。そのまま導かれるように、唇が重なる。
 花火の音も人のざわめきも、全部消えた。ただ乙哉が目の前にいて、柔らかい唇の感触だけを感じて。
 それが、今のしえなの全てだった。
「しえなはわたあめの味、だね」
「……乙哉もな」
 いつまでも味わっていたいと思えるくらい、優しくとろけるような甘い味。今まで屋台で食べてきたものの中で、一番の味わいだった。
 見つめ合っている間に、また一つ花火が上がった。しかし二つの視線は交わったまま離れない。
「……いきなりどうしたんだ、乙哉」
「あ、えっとね……こういうこと、しえなとしてみたいなぁって。実は、前から考えててさ」
 少し照れくさそうな笑顔。何だそれ。しえなも同じく笑ってしまう。
 ――ボクとまったく同じことを、考えていたんじゃないか。
 何発か連続で、突き抜けるような音が聞こえてくる。どうやら花火もクライマックスに入ったらしい。
「おお、派手な感じだねぇ。よし、見に行こう!」
「そうだな。行くか」
 お互いの隣に並んで、歩き出す。
 その間で繋がれた手と手を、花火は鮮やかに照らしてくれていた。



TOP



inserted by FC2 system