悪魔のリドル
『私を忘れないで』
乙しえ
最初は何の他意もない、ほんのイタズラのつもりだった。
「しえなちゃんってさ、可愛いよねぇ」
寮の部屋の中。武智乙哉は、同室のルームメイトである剣持しえなに何気なくそう言った。彼女は背を向けたままで、鞄から私物を出してテーブルに並べていた。
「いきなり、何? お世辞なら間に合ってるよ」
そっけない返事。こういう反応は乙哉にとって逆効果だった。
「お世辞じゃないって。おさげにしてる髪も可愛いし、眼鏡も似合ってるよ。モロにあたしの好みのタイプって感じ」
すらすらとそんな言葉を並べる。好みのタイプ、というのは本当だった。もちろんシリアルキラーである自分にとっての標的として、という意味で。
「な、何それ。訳がわからないんだけど……」
するとしえなが、戸惑ったように手に持っていた物を落とす。照れているのだろうか。
何だ、この子。意外とウブなんじゃん。内心ほくそ笑んで、乙哉は彼女に近づいていく。
どうせなら、もっと面白い反応が見たいと思った。
「……ねえ、しえなちゃんってばぁ」
「何? いい加減しつこんだけど……っ!?」
しえなが振り返った瞬間に腕を引いて、乙哉はその唇を奪っていた。驚いた彼女の足がテーブルにぶつかって音を立てる。後ろに逃げられないようにしたのも計算のうちだった。
まるで咀嚼するように唇を動かし、舌先で表面をなぞって湿らせる。かすかに震えた柔らかさから、相手の動揺が伝わってきた。
十分に堪能した後、乙哉はゆっくりと口を離した。
「しえなちゃん、唇ぷるぷるだねぇ。ごちそうさまー」
気さくに笑いかけるが、返事はなかった。しえなは俯いたままだ。
怒ったのだろうか、とのぞき込んでみると、彼女の顔は目に見えて真っ赤に染まっていた。
「い、いきなり何をするんだ……」
囁くような小さな声。潤んだ瞳が、じっとこちらを睨みつけてくる。あどけない少女の表情。
瞬間、鼓動が一度だけ強く跳ねた。驚いて胸を手で押さえる。
一体今のは何だ……? 苦しいような、それでいて心地よいような、奇妙な感覚だった。
「ご、ごめんごめん。びっくりさせようと思ってさ」
釈然としないまま、乙哉はそう言った。胸の中にまだ違和感が残っていて、変な風に落ち着かなかった。
「はるっちさぁ、好きなものとかある?」
授業の合間。乙哉は前の席に座っている一ノ瀬晴に話しかけていた。
「そーだなぁ、晴はねぇ……」
邪気もなく、彼女は嬉々として自分の好きな物を順番に答えてくれた。
乙哉はにこにこと笑顔を繕っていたが、ほとんど話は聞き流している。これも、暗殺ターゲットに近づくための策略だった。彼女を殺せば、報酬は望むものをそのまま与えられる。そのための下準備を、今こつこつと積み上げていた。
ふと、頬のあたりに視線を感じた。ちらりと横目で見ると、隣の席のしえながさりげなくこちらを見ているのに気づく。
何だ、と思う。その視線には、暗殺者特有の殺意や暗さを感じない。初めて自分に向けられるタイプのものだ。
視線の意味を考えている途中で、チャイムの音が教室に鳴り響いた。
「おーし、授業は終わりだー。みんな、お疲れ」
クラス担任の溝呂木が声を掛けると、クラスメイトたちはそれぞれくつろいだ空気を出し始める。
ガタッ、と少し乱暴にイスを押して、しえなが立ち上がった。一瞬だけ乙哉を見て、そのまま教室を出ていく。
ついてこい、と言われている気がした。
「晴、ごめん。私ちょっとトイレ」
「えっ、あ、うん」
まだ話していた晴を遮って、乙哉はしえなの後を追った。
廊下に出ると、しえなの後ろ姿がトイレに入っていくのが見える。続いて後に入った。
「……何か用?」
鏡と向き合っていたしえなに、背後から声をかける。鏡越しにこちらを見ながら、彼女は口を開いた。
「……別に。ただ、随分仲良さげに話してたなぁと思って」
「は? 何の話?」
「……一ノ瀬と、さっき話してただろう」
バツが悪そうに彼女は目を逸らす。その頬がわずかに赤くなっているのを見て、乙哉はようやくわかった。
もしかしてこれって、嫉妬? あたしが一ノ瀬晴と話していたことに対しての?
随分おかしな話だった。あれが暗殺の過程の一つであることなんて、周りにも、そしてしえな自身にだってわかっていたはずだ。それに嫉妬? 訳がわからない。
そう思っているのにも関わらず、乙哉は感情がそれと全く真逆の方向に向かっているに気づいていた。
「なっ……」
気づけば乙哉は、背中からしえなのことを抱きしめていた。
「武智、何を……」
自分だって、何がしたいのかわからない。ただ心の赴くままに、従ってみたまでだった。
「しえなちゃん、こっち向いて」
腕を解いてこちらを向かせてから、乙哉は有無を言わさずしえなの唇を塞いだ。
あたし、ほんと何やってるんだろ。
しなやかな感触をまさぐりながら、思う。こんな行為は、自分にとっても何の意味もないはずなのに。
「武智……っ」
乙哉を呼んで、しえなが背中に腕を回してきた。目の前にある顔は少し上気して、気恥ずかしそうに乙哉を見つめ返している。
胸をちくりと刺すような痛みが走った。よくわからない感情の動きに、自分でも驚く。
あまりよくない傾向だ、直感的に乙哉は思う。
しかし今はまだあと少しだけ、しえなに触れていたかった。
「はっ……くっ……」
薄暗い部屋の中に、断続的な呼吸の音がこだましている。乙哉はベッドの上で、しえなに覆いかぶさっていた。
乙哉の手に弄ばれているしえなは、耐えるようにシーツを握りしめている。さらけ出された素肌に触れるたびに体を反応させる姿が、何ともいじらしい。
「しえなちゃん、可愛いよ」
「な、何言って……」
「ほら。もっとそういうとこ、見せて?」
彼女がもっとも弱いであろうところに指を忍ばせた。その体がびくっと震える。
口ではああ言ったにもかかわらず、乙哉は何の興奮も感じていなかった。一糸纏わぬ姿のしえなに対し、頑なに服を脱がなかったのはそのためだ。どこか冷めている自分がいる。
やっぱり……これじゃダメなのかな。無意識に唇を噛みしめた。
乙哉にとってセックスは、底のないコップに延々と水を注いでいるようなものだ。いくら相手を求めても、何も満たされることはない。
……だってあたしの欲求は、全然別のところにあるから。
ふつふつと胸に湧いてくる衝動。しえなの柔肌を指でなぞるほど強くなっていく。
――ああ、ここにハサミを突き立てられたら。なめらかなこの体を、心行くまで切り刻み、そこから溢れ出る鮮血に舌を這わせることができたのなら。
想像して、ぞくぞくと背筋が震えるのがわかった。
服の中に忍ばせているハサミに手で触れる。今ならいくらでもそのチャンスがあった。
自分の快楽を、これで満たせる。
「……乙哉っ。おと、やぁ……」
その時、しえなが名前を呼んだ。縋るような、甘えるような声色で。
心臓を掴まれた気がした。ハサミを持っていた手を、ゆっくりと引っ込める。
何故? どうして、殺さない? 今までは、何のわけもなくこなしてきたはずなのに。
乙哉はただ、困惑する他なかった。
おかしい、そんなはずはない。
立ったまま、乙哉は取り出した愛用のハサミを見つめる。それから、ベッドに横たわって寝息を立てているしえなに目を移した。
こんなことは一度もなかった。あたしが、絶好のチャンスを目の前にして殺さなかった、なんてことは。
ハサミの持ち手に指をかけて、刃を擦り合わせる。シャキン、と小気味のいい音が鳴った。一度息をつき、ゆっくりとしえなに近づいていく。
相手は眠り込んでいて、完全に無防備な姿を晒している。殺せる。ぐちゃぐちゃに、切り刻むことができる。
気分の高揚を感じながら、しえなの前に立つ。それからハサミを逆手に持ち直して、思い切り振り上げた。
「……殺すのか?」
しえなが目を開いて、こちらを見上げていた。驚いて、ハサミを取りこぼしそうになる。
「あっ……しえなちゃ……」
「首藤が言っていた。君は、人を殺さずにはいられないんだろう?」
バレていたのだ。自分が、シリアルキラーだということが。
それなら、もう体裁を取り繕う必要もない。
「ボクを殺したいんなら、どうぞ。やってみるといいよ」
鋭い眼光。しえなは暗殺者の目で乙哉を睨んでいた。ぐっと歯を食いしばる。
「……そうだね。悪いけど、あたしのために死んでッ!」
勢いをつけて、腕を振り下ろす。刃先は完全にしえなの喉笛を捉えていた。このままいけば、そこをピンポイントで貫くことができる。
……やれる!
しかし、途中で手がぴたりと止まった。違う。乙哉が自分自身で、止めたのだ。
「……武智?」
しえなが怪訝な顔をしていた。彼女にも想定外だったようだ。
「無理……無理だよ……」
乙哉はその場にひざまずいた。手から滑り落ちたハサミが、不格好に床を転がっていく。
しえなを、傷つけたくない。そんな想いが、自分の本能に抗っていた。
様々な感情がごちゃ混ぜになり、胸の中でせめぎ合っている。
殺せ! 無理だ。 切り刻め! そんなことできない。 何故迷う? だってあたしは……しえなのことが。
乙哉はどうしていいかわからず、ただ涙を流した。人前で泣いてしまうなんて、初めてのことだった。
「……あんた、あたしに何したの……? どうして、こんな……」
一人震えている乙哉の体を、しえなが包み込むように抱きしめた。温かい体温に、乱れた心が安らいでいく。
「ごめんね、乙哉……」
そして今度は、しえなの方から唇を重ねてきた。
ああ、そうか。乙哉はようやくこの気持ちの正体がわかった。
あたしは生まれて初めて、人を――この子を、愛してしまったのだ。
「どもども。こんばんはっス、武智乙哉さん」
にやにやと薄笑いを浮かべながら、走り鳰が近づいてきた。夜の外は風が強く、木々がざわざわと騒いでいる。
「予告票、出してもらったっスよね? 晴ちゃん暗殺の」
「……まあね」
「じゃあ、成功したときの報酬、窺ってもいいっスか?」
口を開きかけて、乙哉は少しの間言い淀む。
最初は、シリアルキラーである自分が安心して人殺しを続けられるように、「保険」を作ってもらうつもりだった。
でもそれを変えてまで、こんな願いをするようになるとは。自嘲的に乙哉は苦笑いする。
「……あたしをさ、普通の人間にしてほしいんだ」
一瞬不可解そうな顔をした後、鳰は腹を抱えて大爆笑した。涙まで浮かべている。
「ぶっははははっ! 何なんっスかそれ? 妖怪人間っスか?」
「冗談じゃない。あたしは本気だよ」
じっと前を睨みつけたまま、言い放つ。鳰はひとしきり笑った後、涙を拭って言った。
「一応聞いておきますけど……それって、同室の剣持しえなが関係してるっスよね?」
やはり、知られていたか。わかっていたことなので、今更乙哉にはどうでもよかった。
「関係ないでしょ? それより、できんの? できないの?」
「もちろん、できるっス。シリアルキラーとしての腐った性根を、一般的なものに矯正する。そんな感じでいいっスか?」
「うん。それでいい」
頷いた後、乙哉は背中に隠し持っていたものを鳰に差し出した。鳰が顔をしかめる。
「……何スか、それ?」
「……もしあたしが失敗した時はさ、これ、しえなちゃんに渡して欲しいんだ」
それは植物園から持ってきた、ワスレナグサで作った花束だった。儚げな薄い青色が、夜の闇をかすかに彩っていた。
「へえ。花束のプレゼントなんて、意外と粋なことするじゃないっスか。シリアルキラーのくせに」
「うるさいよ、お前。いいからよろしくね」
「了解っス。しっかり渡しておくっスよ」
鳰がそう言ったのを聞いて、乙哉はきびすを返して歩きだした。
これでいい、と思った。
失敗したらしえなとは、もう二度と会えなくなる。そうしたら、あたしが彼女を傷つけることもないだろう。よかったのだ、これで。
でも、万が一。もしもこれが成功したとしたら――あたしは普通の人間として、もう一度、しえなと向き合うことができるだろうか。……なんて。
ふと、先ほど手渡したはずのワスレナグサが、どこかで香ったような気がした。
しえなは、あの花に込められたメッセージに、気づいてくれるだろうか。いや、きっと気づくだろう。
そうしたら、一人で泣いてほしい。ただ、いなくなったあたしだけのことを想いながら。
誰も見ていない暗闇の中で、乙哉は一人、笑った。