悪魔のリドル


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ささやかな彼女の証

春伊




 こんなのは、ただの暇つぶし。そう、何の意味もないことだ。
 壁に寄りかかって熱い吐息を吐きながら、犬飼伊介はそう思っていた。
 その体に密着し、露出した肌に舌を滑らせているのは、寮同室の寒河江春紀だ。伊介は衣服を乱されていて、ほとんど裸同然の姿だった。それに対して春樹は自分の着衣をそのままにしていた。彼女の舌先が自己主張の強い胸の先に引っかかり、伊介はまた一つ、息を漏らす。
「なぁ、伊介さま」
「……何よ」
「指、入れてもいいか?」
 そう言う合間にも、春紀の指は段々と下に下がっていく。
「痛くしたら、殺すからね」
「わかってるさ」
 つぷり、と。
 細くて長い指の感覚が伊介の中に割って入ってきた。思っていた以上の快感が走り、背筋ががくがくと震えてしまう。
「大丈夫か、伊介さま」
「……っ。いいから、早く動かしなさいよっ……」
「はいはい」
 かき回すように、指が蠢き始める。その度にちりちりと神経が痺れていく。
 体から力が抜けて、伊介は思わず春紀の体に寄りかかってしまう。少しだけ距離が近づいた、瞬間だった。
「ちょっと。何しようとしてるわけ」
 不意に顔を寄せてきた春紀を押し留める。何をしようとしているかなど、一目瞭然だった。
「それはなしって、伊介言ったじゃない? 死にたいの?」
「ああ、そうだった。忘れてたよ」
 春紀はバツが悪そうに引っ込む。
 ――キスだけは、絶対にしない。こういう関係になる前に伊介が一方的に突きつけた、唯一のルールだった。
「なあ。じゃあ、これならいいか?」
 ふと、にやりと笑った春紀が身を屈める。ぬめりと湿った生温かいものが足の間に触れてきて、思わずのけぞってしまった。
「こっちのキスなら、文句ないだろ?」
「……バッカじゃないの」
 舌と指。両方が伊介の心に絡みついて惑わしてくる。伊介は目を閉じて、揺さぶられるような快楽に酔っていった。


 ミョウジョウ学園の授業はおそろしく退屈なものだった。
 伊介は早々にパソコンを端に寄せて机に突っ伏していた。元から、授業など受けにこの学校に来たつもりはない。だからずっと眠りこけていたとしても、あまり支障はなかった。
 しかし、目を閉じても一向に眠りは訪れない。代わりに、考えたくもないことが頭の中をよぎった。――春紀のことだ。
 考えないようにすればするほど、彼女の姿を思い浮かべてしまう。「伊介さま」と親しげに名前を呼ぶ、あのなれなれしい姿を。
 たかが一時の理由で一緒にいるだけの相手だ。顔を合わせれば、時折気まぐれでセックスするだけの関係。しかし伊介が体に触れるのを許したのは、彼女だけだった。
 ――伊介、何であんな奴とセックスなんてしてるんだろ。
 自分でもよくわからず、伊介は無意識のうちに戸惑っている。
 少し間の抜けた鐘の音が鳴り響いた。授業終了の合図だ。
「伊介さまー」
 後ろから、さっそく呼びかけられた。振り向かないままでいると、春紀が前の方に軽い足取りで回ってくる。
「あたし、腹減っちゃってさ。一緒に食堂行こうぜ」
 能天気で、何の企みもなさそうなおちゃらけた表情で言われる。先ほど考えがこじれていたこともあり、伊介は少なからずイラついていた。
「行くわけないじゃん。一人で行けば?」
「固いこと言うなって。一回だけでいいからさ」
 手を合わせて頭を下げられる。
 バカみたい。一回だってお断りだっての。
 直前までそう思っていたのにも関わらず、気づけば伊介はこう口走っていた。
「一回だけなら、別にいいけど」
 途端、春紀が珍しいものを見たように目を丸くする。
「えっ、マジで? 伊介さま、頭とかぶつけたのか?」
「うるさい、ムカつく。別にいいなら、伊介行かないけど」
「悪い悪い、誘いに乗るなんて珍しかったからさ。じゃあ、さっさと行こうぜ」
 さりげなく手を引かれて、伊介は春紀についていく。
 以前なら、誰かに手に触れるだけでも虫唾が走るくらいだった。それなのに一体、自分はどうしたのだろう。
 もやもやとした気持ちの中に、答えはまだ出てこなかった。

 伊介はイライラしながら、寮の廊下を一人で歩いている。風呂に入りに行くと言って、一向に帰ってこない春紀を探すためだった。もちろん一緒に行かないかと誘われたが、食事の誘いに乗ってしまった悔しさからそれは断っていた。
 まったく。本当に、何やってんのかしら。何度目かの自問自答。
 春紀の帰りが遅かろうが何だろうが、そんなのは向こうの勝手だ。伊介がどうこうする義理もないし、する理由もない。
 だが、伊介は頼まれてもいないのに自分から春紀を探している。
 本当に、何をやっているんだろう。ため息が出た。
「……あら?」
 ふと、どこからか話し声が聞こえてきた。誰かに聞かれまいとしてぼそぼそと潜めている声が一つ。伊介の鍛えられた聴覚なら、かろうじて聞き取ることが出来た。
 足音を忍ばせて、声のする方へ近づいていく。やがて人気のない暗がりに、寝間着姿の春紀が立っているのが見えた。壁にもたれて、携帯電話で誰かと話しているようだ。
「――おう、みんな元気そうだな。ああ、姉ちゃんも元気だよ。お前らには負けるけどな」
 今まで聞いたこともないような、優しく温かみのある声。心なしか、彼女の顔も柔らかく微笑んでいるように見えた。
相手は家族、だろうか。こんな顔もするのね、と少し意外に思う。
「平気だって、心配すんなよ。それよりさ、母ちゃんの具合は大丈夫か? ……そうか。よかった。こっちはもうすぐ帰れるから、それまで母ちゃんのこと、頼むな。それじゃ」
 春紀が電話を切る。と同時に、こちらの方を振り向いた。
「……誰だ?」
 相変わらず嗅覚は鋭いようだ。仕方なく伊介が姿を現すと、彼女はあからさまに体から力を抜いた。
「なんだ、伊介さまかよ。どうかしたのか?」
「なんだってなによ。伊介が散歩してちゃ悪いわけ?」
「ふーん。……もしかして、探しに来てくれたのか?」
 そのものずばりを当てられて、伊介は軽く動揺する。しかし、そんなことはおくびにも出さなかった。
「バッカじゃないの。自惚れないでくれる? 何で伊介がそんなこと……」
「……だよな。冗談だよ、冗談」
 さあ、帰ろうぜと春紀は先に歩いていった。不本意ながらそれに従う形で伊介も付いていく。
「あ、やべ。また中途半端に剥がれてる」
 しばらくすると、爪を見つめていた春紀が声を上げた。どうやら風呂に入ったことで、塗っていたマニキュアがとれてしまったようだ。
「伊介さま、悪いんだけどリムーバー……って、そっか。伊介さまはジェルだもんな」
 引っ込みかけた春紀の手に、すかさず伊介は小瓶を差し出した。それは正に春紀が所望しているリムーバーだった。
「……はい。これでいい?」
「えっ。何で伊介さまが持ってんだ?」
 驚いたような瞳に見つめられて、伊介は思わず顔を逸らす。失敗した、と自分でも思う。
「別に。近くのお店に売ってたから、気まぐれで買っただけだし。何? 使わないならそれでいいけど」
「……いや。使わせてもらうよ」
 不意に春紀が、伊介の腕を掴んだ。途端に強い力で引っ張られ、近くの自動販売機に体を押し付けられる。
「……ちょっと? 何のつもり?」
「そっちこそどういうつもりなんだよ、伊介」
 間近に迫ってきて、春紀が鋭い眼光で睨んでくる。押さえられた両腕は自由が利かない。すごい力だった。
「これも何かの作戦なのか? あたしに近づいて、どうするつもりなんだ?」
 質問ではない、尋問だ。暗殺者としてのお前は、何をしたいんだと問うている。伊介は首を振るった。
「別に、そんなつもりないんだけど。痛いから、離してくれる?」
「じゃあ何が目的なんだよ。あたしを油断させるためか」
 その言葉が、刃物のように伊介の胸に突き刺さってきた。
「……そうだったら、よかったんだけどね」
 かろうじてそう言った。じわじわと内側に広がる徒労感。自分はショックを受けているのだと気づくのに、そこまで時間はかからなかった。
「伊介……?」
 急にしぼんだ伊介の態度に、春紀は訝しげな表情になる。それからはっとして、伊介を捕まえていた手を解いた。
「……なあ、お前もしかして」
「うるさい。黙って」
 口を開きかけた春紀をぴしゃりと遮り、そのまま背を向けて歩き出す。遠慮がちな足音が後から付いてきた。
「……悪かった。ごめんな、伊介さま」
 心から申し訳なさそうな呟きが、かすかに聞こえた。


 その日、春紀とは一度も言葉を交わさなかった。
 朝起きたときにすでに彼女は部屋にいなかったし、教室の中でも挨拶さえしてこなかった。いつもなら、向こうから話しかけてくるのに。
 ……何よ。調子、狂うじゃない。普段以上にやる気なく、伊介は授業を受け流していた。
 一度ちらりと見た春紀は、じっと睨むようにどこか遠くを見つめていた。
 彼女はなにかを決断した、伊介はそう気づいていた。そしてその意味にも。
 それ以上のことは考えたくなくて、伊介は突っ伏したままぎゅっと固く目を閉じていた。


「予告票を、出してきた」
 部屋に入ってくるなり、春紀はそう言った。
 わかっていたはずなのに、ベッドに腰掛けていた伊介は一瞬言葉を失う。
 予告票の、その意味。出したら四八時間以内に、一ノ瀬晴暗殺を実行しなければならない。
 失敗した場合は例外なく――退学。
 伊介はあえていつも通りの猫なで声を出した。
「ふーん、案外早かったわね。あんたは、最後まで残ると思ってたけど」
「……あたしにも、色々と事情があるんだよ」
 音もなく歩み寄ってきて、春紀は伊介の手をとった。持ち上げた手の甲に、軽く口づける。
「キスは禁止だけど、ここならいいよな?」
 不意に浮かんだおどけるような笑顔は、瞬時に曇っていった。くるりと後ろを向いて、彼女は行ってしまおうとする。
「……じゃあな、伊介さま。世話になった」
 ……何も言わないつもりだった。だけどどこか物悲しい声の響きが、口づけられた手の甲の熱が、伊介を突き動かしていた。
 気づけば、春紀のスカートの裾を、掴んでいる。
「伊介、さま……?」
 振り返った彼女から、怪訝そうな視線を向けられた。唐突な自分の行動に、伊介自身も少なからず驚いている。ただもう、掴んだ手は、離せなかった。
「……ないでよ」
「何?」
「行くなっつってんでしょ、バカ」
 一呼吸だけの間が空く。もうどうにでもなれ、心からそう思った。
 だから次に春紀が顔を近づけてきたとき、もう遮ることはしなかった。唇と唇が、遠慮なく触れ合った。
 長い間そうしていて、やがて唇だけでは飽き足らず舌同士が絡みついていく。自分の中にぽっかりと空いていた穴が満たされていくのを、伊介は感じていた。
「おい、こっちのキスはダメなんじゃなかったのか?」
 少し扇状的な眼差しで、春紀が見つめてくる。伊介は鼻を鳴らした。
「さあ、何のことだっけ。伊介、知らなーい」
「ほんとに変わり身早いよな……伊介は」
 ふっと微笑んで、彼女は伊介の着ている物を脱がし始める。伊介はもう一度その唇に吸い付いた。もう止まれないと、駆けだした鼓動が告げていた。
 愛撫をしながら伊介の服をはぎ取ると、春紀も自らの服を脱ぎ捨てた。今まで彼女は、一度も自分の衣服に手をつけなかったのだ。
 少し固めのベッドの上で、互いの肌を擦り合わせる。春紀の指を、舌を、そして体温を、全身で感じていた。まるで神経が燃えたぎっていくような感覚に、伊介は震え、矯声を漏らした。誰の前でも一度も見せたことがない姿だった。
「――春紀っ……」
 自然とその名前を呼んでいた。わずかに目を見開いて、それから春紀は笑う。
「何だ?」
「……行っちゃだめ。行かないでよ……」
「……ほんと、伊介はわがままだなぁ」
 答えになっていないことを囁く、その声は。いつか春紀が、電話越しの家族に向かって喋りかけていたのと同じ、優しさが込められていた。
「……うるさい、バカ」
 ぎゅっと強くその手を握りしめ、やがて少しずつ混濁していく意識に、伊介は身を委ねていった。


 朝の日差しと若干の肌寒さで、目が覚めた。ゆっくりと意識の焦点を合わせていく。
 隣に、春紀はいなかった。横付けされたベッドにも、使われた痕跡はない。
 気だるさを感じながら、体を起こす。春紀の私物も、綺麗さっぱり消え失せていた。がらんと広くなった部屋の中に伊介だけが、一人取り残されている。
 ……行ってしまった。わかっている。
 もうこの場所に、彼女は戻ってこないだろう。
「……何よ。挨拶ぐらいして行きなさいよ」
 下着も身につけないまま立ち上がって、ぽつりと呟く。この部屋からはもう、寒河江春紀の気配は消えていた。あれだけ重ね合わせた肌の感触も、今はもう薄れていくだけだ。
 ふと、鏡の前を通りかかって。伊介ははっとなり、足を止めた。
 胸元にぽつりと一つだけ、赤い跡があった。ささやかでありながら、春紀が残した唯一の存在証明。口づけの証。
「バッカじゃないの……」
 指先で彼女の跡に触れる自分の顔が、鏡越しに歪んでいるのが見える。「伊介さまー!」と自分を呼ぶあの声が、またどこかから聞こえてくるような気がした。
 だけどもう、あの声は帰ってこない。この体に触れてくれた温もりも、二度と。
「……バカ春紀」
 伏せられた睫毛の間から一粒、雫が零れ落ちる。それを洗い流してしまうために、伊介は隠れるように浴室へと入っていった。



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