艦隊これくしょん
あなたを構成する、それら全てのものが
ゆうさみ
出来上がった戦果報告書を執務室に運ぶ最中、階段にいる夕張さんを見つけた。左手に杖を持った彼女は、一段ずつ慎重にこの階へと上ってくる。私は慌てて報告書の山をその場に置くと、彼女に駆け寄っていった。
「夕張さん、お手伝いしましょうか?」
「五月雨ちゃん」
私を見上げて、夕張さんは目を軽く見開いたあと照れくさそうに笑った。
「ありがとう。じゃあお助けしてもらおうかな」
「はい、もちろんです」
彼女の横に立ち、手を取って体を支えてやる。彼女のペースに合わせて、ゆっくりと少しずつ段を踏む。
「ごめんね、お世話になっちゃって。私、階段はどうも苦手でさ」
「気にしないでください。私が勝手にしていることですから」
そう言うと、夕張さんは私の方を向いて今度は柔らかく微笑んだ。
「いい子だね、五月雨ちゃんは。いい子、いい子」
頭を撫でられる。「く、くすぐったいです」と言い返しつつも、おそらく私は嬉しさを隠し切れていなかった。
やがて階段を上りきると、彼女は私の手を離してしまった。
「どうもありがとう。ここからは一人で大丈夫だから」
「でも……」
「五月雨ちゃんも、提督に報告書届けにいくところだったんでしょう? 秘書艦は忙しいもんね」
どうやら気づかれていたらしい。私は頷く。しかしここで別れるのも少し名残惜しかった。朝から私は秘書艦の仕事が、夕張さんは装備開発の研究があって今ようやく顔を合わせられたのだ。
私がうなだれていると、ふと夕張さんが耳元に顔を寄せてきた。
「お互いの仕事終わらせてさ。……また夜に、ね?」
顔を赤くした私に手を振って、夕張さんは歩いていってしまう。左手で、ペタンペタンと杖をつきながら。
よし、夜までに仕事を終わらせなくては。気合いを入れ直して、私は執務室へと足を向けた。
……肝心の報告書を忘れて一度取りに戻ったのは、ここだけの話である。
夕張さんは昔所属していた艦隊の出撃中に、敵の砲撃を左足に受けたらしい。当時は資材もあまり数がなく、ようやく彼女がドック入り出来たときには、左足はもう元の通りに動かすことは出来なくなっていたそうだ。
海の上なら艦娘は自在に動けるので問題ないが、陸地では彼女は常に杖を使っている。そのせいで歩行が少し遅いことを本人は密かに気にしているようなのだが、私は悪くないと思っていた。
……だって。
秘書艦の仕事を終え、私は待ち合わせ場所である波止場に出てきた。星の灯った空の下で、波が静かに押し寄せて、潮風が優しく吹き付けている。心地の良い夜だった。
やがて、後ろからこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。すぐに夕張さんのものだと気づく。ペタンペタンと、杖をつく音がするからだ。
彼女の足音がすぐにわかる。だから私は、杖をついて歩く彼女が好きだった。
彼女が近づいてくるのがわかっていたが、私はあえて振り返らない。すると、背中からぎゅっと抱きしめられた。
「だーれだ?」
弾んだ声。つられて私の心も躍り出す。こうされるのも、私の好きなことの一つなのだ。
「んー、誰でしょう? 私の知っている人でしょうか?」
「あっ、ひどいなぁ。これは五月雨ちゃん用に、忘却防止装置を作らなくちゃダメかなぁ?」
「ふふ、冗談ですよ、夕張さん」
振り返ると、やはり彼女は笑っている。私も顔を綻ばせた。夜の闇の中で、彼女の笑顔だけが鮮やかに切り取られて見える。好きだな、と何度目かの同じ言葉を、私は思い浮かべた。
やがて彼女は無言のまま顔を近づけてきた。私は目を閉じて待つ。すぐに、唇に柔らかい感触が降り注いできた。
どこまでもどこまでも沈んでいけそうな、夜の空より深く、朝の日差しより温かなもの。それが私をとろけさせ、心の底まで幸福感で満たしてくれる。
「……可愛いね、五月雨ちゃんは」
少し淡い目をした彼女が、私の前髪をかきあげた。潮騒も虫の鳴く音も、もう聞こえない。今だけ彼女の存在が、私の全てになる。
「好き」
それだけ告げて、彼女はまた私にキスをした。
短い言葉の中に、彼女の心を感じる。溢れ出して両手でも受け止めきれないほどの想いを、届けてくれる。
だから、私も。
「好きです、夕張さん」
同じ言葉を。それ以上にほとばしる想いを唇に乗せて、彼女に伝えてみるのだった。