艦隊これくしょん


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I was dreaming

ゆらだち




「由良。ねえ、由良」
 誰かが呼んでいた。由良はゆっくりと重い瞼を開いていく。
「ひょっとして、ちょっと眠いっぽい?」
 隣に座る夕立がはにかんでいる。どうやら自分はうつらうつらと船を漕ぎ始めていたらしい。目を擦って、眠気をごまかす。
「ううん、平気。夕立はどう、眠くない?」
「へっちゃらだよ」
 そう言って彼女は空を仰ぎ見る。由良もその視線を追った。
 無数の星が瞬いていた。世界中の暗闇を照らし出そうとしているかのように、その一つ一つが輝いて夜空に浮かんでいる。
 由良たちは波止場の縁に座ってそれを眺めていた。海のそばで遮るものは何もなく、今なら手にとって眺めることまでできそうだ。
「綺麗ね」
「うん、そうだね」
 夕立がそう言いつつ由良の手の上に自分の手を重ねてきた。慣れ親しんできたものよりちょっとだけ大きな手のひら。
「好き」
 じっとこちらを見つめながら、彼女はそれだけ言う。自分の目線と同じ位置に並んだ、紅い瞳。内側で燃える意志の強さを表しているかのようだ。
 彼女は改二になったばかりだった。
 最初、背が伸び体つきがたくましくなって、何もかもが変化した彼女には戸惑いを隠せなかった。自分の知っているあの子ではないのではないかと、不安になったこともある。
 でもやはり、彼女は、彼女だった。以前のよう甘えてくれるし、喋り方もあまり変わらない。ただ、愛情表現がやや直接的にはなってきていた。
「好きだよ、由良」
 夕立が由良の手を持ち上げ、自分の頬に手の甲を触れさせる。柔らかな手触り。由良は自分の胸の内が、少しずつ熱くなっていくのがわかった。
「えっと、私も……」
「ちゃんと言ってくれなきゃ、ダメっぽい」
「……私も好きよ、夕立」
 そう言うと、彼女は本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。
 ああ、と思う。そんな笑顔を、いつまでも見ていたい。ずっと自分の傍で、そうやって笑っていてほしかった。
 ふと顔を上げると、空の星に混じって一つだけ、大きな光があった。
 太陽だ、と気づく。しかしそれは変だった。どこの世界にも、夜昇る太陽など、あるわけがない。
 そうか。由良は急に力が抜けていくのを感じた。同時に目の前の光景は、じわじわと薄れてやがて消える。
 目を開けたとき、そこには最早見慣れてしまった天井があった。
「夢……」
 布団から体を起こす。少し広めの部屋に、由良は一人きりだった。
 前はここにもう一つ、同じ布団が並べられていた。
「夕立……」
 呟く。彼女は今日も、夢枕に出てきてくれたのか。
 ――夕立が沈んでから、幾ばくかの月日が過ぎ去ってしまっていた。


 まだ戦火の激しかった時代だった。どこも物資不足に喘ぎ、それでも敵艦の数は増え続け、艦娘たちもそれを指揮する提督たちも疲れ切っていた。
 そんな中でも、きっと自分たちは幸せだったのだと、由良は思い返す。そこに日常はちゃんとあって、豊かとはいえないがちゃんとした暮らしが成り立っていたのだと、そう思う。
 自分には、夕立がいた。彼女がいるだけで、度重なる戦闘でどれだけ疲れていても、時折不安になっても、希望を忘れないでいられた。
「由良! 平気だよ、夕立がついてるから!」
「まだまだいけるっぽい。ね、由良!」
「夕立、由良のこと好きだよ。ふふ、大好きっぽい!」
 今でも彼女の声が、自分の中に残っている。鮮明に蘇らせることができた。
 それは、いつもと変わらない日だった。
 夕立が由良のいない艦隊に入り、出撃することになったのだ。
「すぐ帰ってくるから、心配ないっぽい。待っててね、由良!」
 しきりに心配する由良に、彼女は元気良くそう言って、笑顔のまま出掛けていった。由良も、彼女が無事に帰投することを信じて疑っていなかった。
 だが彼女は、一人だけ帰ってこなかった。
「由良、すまない。……夕立が、轟沈した」
 提督である彼女が、押し殺したような声で静かにそう告げた。
 何を言っているかわからず、ただ困惑した。それからその言葉が徐々に心を蝕み、由良はその場で崩れ落ちて訳も分からなく叫んだ。
「あんたがッ! あんたのせいで夕立が……ッ!」
 絞り出すようにして提督を罵倒した。胸の中で荒れ狂う感情をぶつけることができる相手はその時、彼女しかいなかった。
 提督はただ帽子を目深に被って俯いたまま、「すまない」と返すだけだった。
 彼女もきっと辛かったのだ。そしてその何十倍も辛かった由良のことを、しっかり理解してくれていた。だから何も言わなかったのだろう。
 あれから一体、何十年経っただろうか。由良にはわからない。流れる時間を忘れてしまうほどに、必死にこれまでを生きてきた。
 気づけば戦火は収まってきていて、夢見ていた平和な日々が近づきつつあるのを実感できるほどになっていた。
 夕立のことは、一瞬でも忘れたことはない。今でも彼女が傍にいるかのように、その笑顔を、自分を呼ぶ声を、その温もりを思い出すことが出来る。だが昔ほどは辛くなくなった。
 ――艦娘はいつの日かまた同じ姿に生まれ変わる。
 ずっと前に、そんな噂を耳にしたことがあった。そんな馬鹿な、と思う。でもそれを信じてしまっている自分がいる。
 待ってみようと思ったのだ。彼女が、いつか自分の元に現れてくれる日を。きっと彼女は長い旅の途中だろうから、気長に。自分なりの日々を積み重ねながら。


「もう、大丈夫なのか、由良」
 執務室で共に資料を片づけているとき、ふと提督がそう声を掛けてきた。彼女も年を取り、貫禄が出てきていた。短かった髪は今、背中まで伸びている。最近は白髪の処理に追いつかないとぼやいていた。
「……大丈夫です。私こそ、すみませんでした、提督さん」
「いいのよ。あの時の私は、本当に未熟者だったと思うから。責められて当然だわ」
 彼女は一息ついて椅子の背もたれに寄りかかる。あの後、彼女は自分の指揮する艦隊から轟沈する者を一人も出さなかった。それがきっと、彼女の弔いなのだろう。そしてそれは、これからもずっと続くに違いない。
「……頼りにしてるわ、提督さん」
 由良がそう言うと、彼女は「わかってる」と口元に皺を寄せて笑った。


「夕立がいなくても、もう寂しくない?」
 青空を覆ってしまうような大きな月の前に、彼女はいた。それはやはり夢の中だった。
 由良はじっと紅い目でこちらを見つめる彼女の前に行く。そしてその体に縋りつくように抱き締めた。
「……寂しい。寂しくて、たまらないわ」
 そこに体温はない。あのしなやかで優しい感触も、何もない。まるで雲を抱いているようだった。でも彼女が自分の見ている幻だとしても、そうせずにはいられない。
 私は夕立に未だ焦がれ続けている。夢で会うたびにそんな気持ちを自覚した。
「大丈夫だよ」
 彼女はそう言う。そう言ってそっと頭に触れ、由良の後ろで纏めた髪の束も梳かしてくれる。触れられている感覚はなくても、そこから溢れてくるような優しさだけは、わかった。
「またすぐに、会えるっぽい。だから、待ってて」
 にっこりと、目の前で笑顔が咲いた。
 何回も、何百回も聞いた言葉。でもそう囁かれると、ぼんやりと心に巣くっていた闇が、一気に晴れ渡っていくのを感じる。由良は未だに、夕立によって生かされ続けていた。
「……うん。待ってる」
 震える声で、かろうじて由良はそう返した。夢なのに頬を流れる涙は温かい。きっとそれは、まだ眠っている自分もまた泣いているからに違いなかった。


「新しい艦娘が来てくれたみたいなの。由良、挨拶しといてくれるかしら」
 ある日執務室に行くと提督がそう言ってきた。
 彼女はどこか浮かび上がる笑みを押し殺しているような表情をしている。不思議には思ったが、ひとまず由良はその新しい人材がいるという応接室へと向かった。
「失礼します」
 声を掛けて中に入る。そして、目を疑った。
 彼女が、そこにいた。テーブルとセットになったソファに行儀よく座り、こちらをじっと見つめている。しかし姿は改二以前の幼い姿だった。
 いや、きっと姿が似ているだけで別の子なんだ。期待する心に歯止めをかける。艦娘は、別の鎮守府の艦隊に自分と同じ姿をした者がいることがよくあるらしいというのは知っていた。
 こほん、と咳払いして動揺を呑み込み、由良は彼女の前に立った。
「初めまして、私は秘書艦の由良。我が艦隊にようこそ、夕立さん」
「初めましてじゃないよ」
 すぐにそう返されて、はっとなる。心臓が徐々に早まっていくのを感じた。
「戻ってきたよ、由良。お待たせしたっぽい」
 彼女は夢の中のままに、優しく由良へと微笑みかけてくるのだった。



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