艦隊これくしょん
いつかという瞬間の今を
大北
――やっぱり、海は大きいなぁ。
防波堤に腰掛けて、北上は遠くにある地平線をぼんやりと眺めていた。穏やかに波打つ海面に、青空が淡く映り込んでいる。
悪くない眺めだった。だけど、と北上は思う。
隣にもし彼女がいてくれたのならば、きっと最高の景色になっていただろう。片膝を抱え、ため息をついた。
この広い海のどこかに、彼女はいるのだろうか。目を閉じてその姿を思い浮かべてみる。
栗色で、毛先の少し跳ねた長い髪。大きな瞳は今見える海の表面のようにきらきらと光っている。いつも真面目な顔つきは、自分を見つけるとにっこりと満面の笑みを浮かべるのだ。
(北上さん!)
彼女が名前を呼ぶ声まで、鼓膜に染みついてしまっている。一体何回、彼女に呼ばれたのだろう。数えきれないほど。それでも今は、まだ呼ばれ足りないとさえ思える。
会いたいよ、大井っち。
ぐっと唇を噛みしめた。そうでもしないと、途端に弱気な言葉が漏れだしてしまいそうだったのだ。
ふと、誰かが後ろに立つ気配を感じた。
「大井っち……?」
振り向くと、白い軍服をだらしなく着崩した男性が立っていた。気さくそうな笑顔を作り、片手をこちらに振っている。
「残念、俺っちでした」
「……なんだ、提督かぁ」
北上はあからさまに肩を落とした。そんなに都合よく現れるはずもない。そうわかっているのに期待している自分が何だか情けなかった。
提督がけらけら笑いながら、近くまでやってきて言う。
「五月雨にここにいるって聞いたんだ。そろそろ演習始まるから、集まってほしいってさ」
「……はいよー。もうちょっとしたら行くから」
そっけなく返事して、北上は再び海に目をやる。まだ少しだけこの場に居たかった。波の音は、もやもやとしたものを誤魔化してくれるから。
不意に、提督が防波堤に上ってきて隣に腰を下ろした。
「……大井のことか?」
そう声を掛けられて、思わず北上は彼を見た。彼は少し乾いた笑い声を上げる。
「あなたと大井は、本当に仲がいいって聞いてるよ。ウチの艦隊にはまだ配属されていないものな、彼女」
あなた、というのは北上を指す言葉だ。彼はよく誰かを呼ぶときその言葉を使う。「お前」でも「君」でもなく、「あなた」。ある程度の敬意を持って人に接する彼の態度が、北上は嫌いではなかった。
「寂しいか?」
続けて尋ねられる。即座に当たり前だ、と胸の内で思った。
でもそれを表に出してしまいたくなかった。だから北上は、代わりに聞いていた。
「……提督も、離れた所に大切な人がいるんでしょ?」
彼はかすかに目を見開いて、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「まあね。あいつも、俺と同じ提督だから。こことは違う場所に配属されてるよ」
「あいつ」と彼が称するのは、彼と同じ性を持つ男性である。遠くの地にいるであろうその人と、彼は恋人関係にあるのだ。
彼は自身が同性愛者であることを隠そうともしない。むしろ何でもない事のように、誰にでも話す。それが彼のいいところの一つであり、みんなに好かれる理由なのだろう。北上も、彼には近しいものを感じていた。
「寂しい?」
そう聞き返した。一体どのような答えが返ってくるのか、北上は興味があったのだ。
「ああ、寂しいよ」
彼は、あっさり言った。あっけない返事に思わずぽかんとしてしまう。
「もう滅茶苦茶に、この上なく寂しい。できるなら今すぐ飛んでいって、あいつに抱きしめてもらいたいくらいだよ。俺は、元来結構な寂しがり屋だからさ」
冗談っぽい口調だったが、それは本心であるようだった。やや大人びた容貌の彼がそんな子供っぽいことを思っていたとは意外だ。
「提督は、それでも平気なの?」
思わず聞いてしまう。すると彼は、心の底から愉快そうに笑った。
「もちろん。だって絶対にまた会えるからな。その時までの辛抱だ」
日差しが柔らかに、降り注いできたような気がした。どこかでカモメが楽しそうに歌を歌っている。
――また会える、か。
「……そうだね。また会えるもんね」
自然と口元が綻んでしまう。
また会える。まるで何かの呪文みたいな言葉だ。人をたちまち元気にしてしまう、一般的な魔法の言葉。
「おう、良い顔になったな。じゃあ俺はそろそろ戻るよ」
演習に遅れないようにしろよぉ、と釘を刺して建物の中に戻っていく彼を見送った。
それから防波堤の上で立ち上がり、北上は大きく塩気のある空気を吸い込んだ。
「よし、やるぞぉっ!」
途方もなく広がる海に向かってそう叫んでみた。胸の中のもやもやが、それで一気に晴れたみたいだった。
きっといつか、また会える。そう信じてさえいれば。だからもうくよくよするのはやめよう。彼女だってそれを望んでいるはずだ。
最後にもう一度叫んでみようと息を吸っていると、後ろから再び足音が聞こえてきた。
「提督? 忘れ物でもしたの?」
振り返った北上はそのまま固まった。
やってきたのは、提督ではなかった。
「はい。忘れものを、取りに来ました」
喜びという感情を全て表したかのような、その気恥ずかしげな笑顔は。
わかっている。わかっていた。
「北上さん」
名前を呼ばれる。幻でも何でもなく、本当の声で。
目の奥がたちまち熱くなった。それでも無理して笑う。
何だよ提督、と思った。きっと全部、彼の計らいなのだ。
――いつかって、今なんじゃんか。
防波堤から飛び降りて、北上は彼女の体を、力一杯抱きしめた。