艦隊これくしょん


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わたしたち。





とく、とく、とく
ゆうさみ

「夕張さん、脈を確かめてもいいですか?」
 夜。部屋に戻る前に談話室で二人、一服している時だった。
 ソファの隣に座る五月雨が、夕張に突然そんなことを尋ねてきた。夕張は怪訝な顔になる。
「……脈? 私の?」
「はい。こう、手首に指を当てて、脈を計るんです」
 五月雨は無邪気に笑って言う。どうしてそんなことを、とは思ったが、結局彼女のその表情に負けた。少し距離を縮めて、夕張は手を差し出す。
「はい、どうぞ」
「わあい。ありがとうございます」
 さっそく五月雨は夕張の腕をとって、手首に親指を当てた。んー、んん? などと唸りながら、位置を微調整している。何だか可笑しい。
「あっ、わかりました!」
 不意に声を上げる。どうやら夕張の脈を捉えたらしい。
「あっ、すごい! ちゃんと動いてますね!」
「ほんと?」
「はい! 一定のリズムです!」
 大げさなくらい喜んでいる五月雨。子供のような彼女に、夕張も微笑ましくなる。
 ふと五月雨がずいっと近づいてきた。
「あの、夕張さんの心臓の音も、聞かせてもらっていいですか?」
 手首に触れていた手で、今度は夕張の手を取った。こちらを見つめる瞳は、心なしかひどく真剣なように見える。
 そんなに大事なことでは、ないように思えるが。
「い、いいけど……」
 結局その勢いに負ける形で頷く。五月雨の笑顔が深まった。
「では、少し横になってみてください」
 言われたとおり、ソファに軽く体を横たえる。五月雨が上に折り重なってきた。
「む、胸に耳を、当てますね」
 上擦った声で五月雨が言う。見上げた彼女の顔は強ばっているようにも見える。
 緊張しているのだろうか。よく考えれば、胸に耳を当てるというのは一般的なスキンシップとはちょっと違うような気がする。それこそ、親密な仲でないと……。
 夕張まで何だか緊張してきた。
「し、失礼します……」
 五月雨がそっと夕張の胸に耳を当てた。触れた瞬間、「あ、柔らか……」と言い掛けて彼女は慌てて口を噤む。変な気持ちになってきた。
「あっ」
 動きを止めて、五月雨は少し黙り込んだ。
「聞こえます、夕張さんの音……」
 固くなっていた彼女の表情が緩む。夕張は口を開いた。
「どんな、感じ……?」
「ちょっと早いですかね」
 苦笑いをして、五月雨は言う。
「でも、しっかり聞こえてます。微かな音なんですけど、力強いです」
 うっとりと、彼女は目を閉じた。
「ああ、夕張さん――生きて、いるんですね」
 その言葉を聞いた瞬間、わかった。五月雨が、突然こんなことをしたいと言い出した理由。
 ――私が生きていることを、確かめたかったのか。
 そんなことは当たり前なのに。この子は、時折心配性なのだ。
 ふと思い立って、夕張は言ってみた。
「ねえ。私にも五月雨ちゃんの音、聞かせて?」
 慌てて五月雨が顔を上げる。
「えっ、私のですか?」
「うん。五月雨ちゃんばっかりずるいよ。私も聞きたい」
 ちょっと意地悪な言い方をしてみる。素直な五月雨は僅かに考え込んでいたが、やがて頷いた。
「は、はい。では、横になりますね」
 反対側に彼女は体を傾ける。夕張は少しずれて、ゆっくりと顔の側面を彼女の体にあてがう。無駄にドキドキしていた。もやもやしたものを振り払おうと、耳に神経を集中させる。
 ――あっ。
 聞こえてくる。
 とく、とく、とくと。
 彼女の中で脈打つ音が。
 大変なものを発見したかのように、心が騒いだ。だけどそれはほんの一瞬で、すぐに気持ちは和らいでいく。
 この世界に――ここに、彼女がいると知らせてくれる確かなサイン。
 ――生きている。
 強く、そう感じた。
「……夕張さん?」
 しばらく黙ったままの夕張に、五月雨は不思議そうな顔をしていた。夕張は目を閉じたまま答える。
「ごめん。もう少し、このままで」
 まだ聞いていたかった。
 とく、とく、とく、と。
 自分を呼ぶ彼女の優しい声を、ただ。



海上散歩
ゆらだち

「海の上を散歩しにいかない?」
 夕立が由良にそう持ちかけてきたのは、日が沈んで大分経った頃である。時計の針はもう十時を示していた。
「えっ、でも……」
 由良は難色を示す。時間帯が時間帯だし、何より出撃や演習以外で海に出ることは禁止されているのだ。
「平気っぽい。どうせ沖までは行かないから」
 ほら、行こ行こ。子供のように手を引く夕立の誘いを、結局由良は断りきれなかった。
 波止場に出る。停まっている出撃用の大型船を横切り、埠頭の先に立った。
 ざああん、と波が押し寄せている。海は夜空の色を移して黒々としていた。暗闇の中の海を見ていると、どことなく不安な気持ちになる。
「よっと」
 隣に立っていた夕立が、海面に降り立った。ぽかんとしている由良に手招きをする。
「ほら、由良も早く来て」
 見つかれば厳重注意ものである。由良はため息をついて海の上に降りた。由良と夕立を含む艦娘は、陸と同じ要領で海上に立つことができる。普通の人間と違い、やはり艦としての特性を持つ所以である。
「そおれ、ぶーん!」
 両手を広げて、夕立は駆けていく。
「あまり遠くまで行っちゃダメよ。見えるところにいてね」
「わかってるっぽい!」
 くるくると広い海の上を、夕立はあちこち走り回っていた。まるでリードを外された子犬だ。由良は苦笑した。
「ねえ、由良も由良も!」
 駆け寄ってきた夕立は再び由良の手を引く。そのまま、また走り出した。
「わっ、ちょっと待ちなさい」
 その勢いに引っ張られて、由良も走る。
 足が、海を蹴るたびに。波とは違う波紋がそこに浮かび上がる。細かい水しぶきが跳ねる。
 何となく、心地いい。夜の海は暗くて苦手だと思っていたが、よく見れば白い月の光が映り込んでいてほのかに明るいのだ。
 ――嫌いじゃないかも。
 由良は夕立につられて、楽しくなってしまっている自分に気がついた。
「由良、ターンだよ、ターン!」
 急に夕立が方向転換した。
「あっ、ちょっ……!」
 それに対応しきれず躓く。手を繋いだままだったのでバランスを崩した二人はそのまま派手に転がった。
 由良は仰向けに投げ出され、そのまま夕立を体で受け止めるような格好になった。折り重なった二人は、大きく上がった飛沫で全身びっしょり濡れてしまった。
「もう、急に曲がったりしたら危ないでしょう」
「あはは、ごめんっぽい」
 体を起こして、夕立は笑う。由良はそれを見上げながら、背中で不明確な海の感触を受けていた。
 空には星一つない。真っ暗で、どこまでも伸びているようだ。そして今自分たちがいる海も、深く深く、月の光の届かないところまで続いている。
「このまま、沈んじゃいそう……」
 思いがけず、そんなことを呟いていた。
 特に意味などない。ただまた、夜の海の怖さを思い出したのかもしれない。
 夕立に目をやる。彼女は笑っていた。だがそこには、先ほど滲ませていた幼さは微塵もない。
 笑っているのは口元だけだった。
「いいよ」
 彼女は静かに言う。湿った髪の先から、水滴が滴った。
「由良とだったら沈んでも――いいよ」
 ぞっとするほど、穏やかな眼差しだった。まるで深海の揺らぎのように、何もかも呑み込んでしまいそうな――闇。
 ――私はこの子に、こんな目をさせてしまうようになったのか。
 それがひどく、悲しかった。
「……ごめんね」
 由良は体を起こした。それから夕立を引き寄せて、唇を重ね合わせる。彼女は突然の行動にも驚きもせず、目を閉じていた。
 少しだけしょっぱいような気がするのは、海水を浴びたせいだろうか。並びのいい歯に舌を這わせて、濡れそぼった彼女の髪を撫でる。
 潮風が吹きつけた。
「あ、由良。ちょっとタンマ」
 そう言って由良を引きはがした夕立は、大きくくしゃみをした。「あー、寒いっぽい」と鼻を啜る彼女は、もう元の彼女だった。
 安心して、由良は言う。
「帰って、お風呂に入ろっか」
「そうだね! 一緒に入ろうよ」
 起きあがって、二人は手を取り合い、帰り道を辿り始める。
 ――まだ、沈めない。
 密かに思う。
 ――私が沈んだら、きっとこの子までも一緒に、引きずり込んでしまうから。
 夕立はにこにこしながら由良を見上げている。
 由良もぎこちなく、笑い返した。



Fall to sleep
天島

 吹き付ける潮風はほんのりと肌寒い。
 もう夏が終わろうとしているサインだろうか。島風はむき出しの自分の腕をさすりながら、部屋の窓を閉めた。キャミソールにショーツという下着だけの格好では、やはり冷える。
「おい島風。何やってんだよ、寝ねぇの?」
 後ろから声を掛けられて、振り返った。
 ベッドに横たわってこちらを見ているのは、天龍である。何故か眼帯はつけたままの上下黒ジャージ姿という寝間着を纏った彼女は、既にうとうとしているみたいだ。
 無理もない、と思う。彼女は随分長い出撃をこなしてきた後なのだ。疲れているのだろう。先ほど一緒にシャワーを浴びているときも、眠そうだった。
「ん。今行く」
 そう返事して島風は天龍の元へ向かう。ベッドの横にたどり着くと、手がにゅっと伸びてきて島風を捕らえ、そのままベッドに引きずり込んだ。
「わっ。ちょっと、危ないって」
「大丈夫大丈夫。しっかり受け止めただろ」
 半分寝ぼけ眼の声である。天龍は向かい合う形で島風の体をがっちり抱き止めていた。これではまるで抱き枕だ。呆れてしまう。
「離してよ。暑苦しい」
「いいじゃねえか。今日は涼しいんだし」
 もう目を閉じている天龍が言う。それに、と更に続けた。
「――オレがこうしていたいんだよ。イヤか?」
 腕を解こうともがいていた島風は、動きを止める。少し驚いていた。彼女の口から出たにしては、随分と素直すぎる言葉だ。
「……別に、イヤって訳じゃないけど……」
 かろうじて、そう答えた。密着した体は、見た目よりずっとしなやかだ。薄着な島風には、はっきりとその感触が伝わってくる。
 ……落ち着かない。
「そうか。……ありがとな」
 一度だけふわりと優しい手つきで、頭を撫でられた。島風はまたぎょっとする。
 普段の格好つけの彼女なら絶対ありえない行為と、言動である。気でも狂ったのかそれとも。
 ――寝ぼけているのか。
 ちょっと落胆した。それでも自分の顔がほんのり熱くなっているのに気がついてバツが悪くなる。文句の一つでもつけてやろうと、島風は顔を上げた。
「ちょっと、あんた……」
 吐き出そうとした言葉を見失った。
 天龍は島風を抱きしめたまま、既に寝息を立てていたのだ。とても安らかな寝顔だった。リラックスしていて無防備で――母親に身を寄せる子供のような。
 島風は一人ため息をつく。すっかり毒気を抜かれてしまった。
「……そんな顔見せるの、私の前だけにしてよ」
 決まりが悪いので一言口に出したものの、自分でもこっぱずかしいものになってしまった。ふん、と鼻を鳴らし、島風は目を閉じる。
 すると、思いの外自分が悪い気分でないことに気がついた。寧ろ、その逆だった。
 天龍がこの部屋に泊まるときには、ベッドが一つしかないからまあそれなりに寄り添って寝る形になる。だけどここまでくっつき合うのは初めてのことだった。
 ――あったかい。
 思わず自分から、天龍との距離を縮めてしまう。ジャージ越しの彼女の体温は、不思議と安心できる。
 やがて穏やかな微睡みがやってくる。島風は手探りで掛け布団を掴んで自分と、そして天龍の体を覆った。
「……おやすみ、天龍」
 ――明日も、起きたら隣にいてよね。
 後の言葉は言わずにおいて、ゆったりとした眠りの中へと、落ちていった。



貴方だけだとお思いで?
ひほう

 暗い台所の中に、小さく水音が響いている。
 鳳翔は手元を照らす蛍光灯の明かりを頼りに、汚れた食器を洗っていた。夕食の後始末である。
 もうそんなに量はないので、手伝ってもらっていた作業妖精たちには一人で大丈夫だと告げた。だから今この場には鳳翔しかいない。
 洗剤のついたスポンジを食器に擦りつけ、水で流し水切りかごの中へ入れていく。全て洗い終わった後にこれらの水気を拭って棚にしまえば完了だ。
 和服の袖をめくり返していると、後ろからのノックの音が聞こえてきた。入り口が開く。
「お疲れさまです。終わりましたか?」
 振り返ると、航空戦艦の日向が立っていた。鳳翔は笑みを作る。
「ありがとうございます。これだけ片づけたら、もう終わりです」
「そうですか」
 日向は扉を閉めてこちらに歩み寄ってきた。それから隣に立ち、布巾を持って水切りかごに手を伸ばした。
「手伝います」
「えっ、でも……」
「いいんです。――私が手伝いたい、だけですから」
 そう言って日向は柔らかく微笑んだ。僅かな間、鳳翔は見惚れてしまう。それからはっとなって、慌てて食器を洗う手元に目を戻した。
「そ、それじゃあ、お言葉に甘えて……お願いします」
「はい」
 鳳翔は洗い、日向は食器を拭いて棚に戻す。黙々と作業は行われた。鳳翔はちらちらと彼女の横顔を盗み見ていたが、結局掛ける言葉が浮かばなくて口を開くことはなかった。
「これでラストですね」
 鳳翔が渡した最後の皿を、日向は丁寧に拭き取って棚に戻した。終わりだ。
 前掛けを外して畳みながら、鳳翔は頭を下げる。
「ありがとう、日向さん。おかげで助かりました」
「いえ、どうせ暇でしたから」
「今日は何もなかったのですか?」
「大したことじゃないです。演習と、ほんの少し出撃があっただけで」
 鳳翔は驚いて、少し申し訳なくなった。きっと彼女は今帰ってきたところなのだろう。
「まあ。ごめんなさい、お疲れなのに手伝わせてしまって」
「大丈夫ですよ。先ほども言ったように、私が手伝いたかっただけなんです」
 正面に立つ日向は何か迷っているように視線をさまよわせている。鳳翔はよくわからず首を傾げていると、不意に彼女が腕を伸ばしてきた。
「きゃっ!」
 抱き寄せられる。鳳翔は日向の体に受け止められ、そのまま両腕で包み込まれていた。
「……貴方と居られる時間を少し増やしたかった。私のわがまま、です」
 囁かれた声は、途方もなく澄んでいる。鼓動が、一拍遅れて徐々に強くなっていく。
「演習中も、出撃中もずっと――貴方のことばかり考えていた。戦艦失格ですね、私は」
「ひゅ、日向さん……」
 名前を呼ぶことしかできない。息を吸うことさえ忘れてしまいそうだった。
 日向は腕を解かないまま鳳翔との距離と取り、それからゆっくりと顔を近づけてきた。
「日向さん、ここは人目が……」
「平気です。入るときに鍵を掛けておきましたから。……それに、もう我慢できそうにない」
 ――すみません。そう謝って、彼女は鳳翔の唇を塞いだ。
 少しだけ、かさついている。多分潮風を浴びていたせいだろう。
 でも、やっぱり柔らかい。もっともっと、欲してしまうほど。いつの間にか鳳翔は、自分から積極的に唇を動かしていた。
 息苦しくなる頃でも、二人はしばらく離れなかった。やがて限界と判断したらしい日向から唇を離してきた。つう、と銀色の糸が二つの唇の間に掛かり、すぐに消える。
「……すみません」
 肩で息をする鳳翔に、日向は目を背けたまま謝った。
 ついこらえられなくなってしまう。鳳翔は彼女の頬を両手で覆った。
「謝らないで」
 吐息混じりの言葉。唇同士が再び近づく。
「――もう一度、だけ」
 今度は鳳翔から彼女に触れた。ぎこちなくも自分から舌を差し込んで、動かす。
 ――自分だけが一方的に好きだなんて、思わないで。
 そう柄にもなく、思っていた。
 離れた二人はしばらく視線を交わし合っていた。日向は口を開いたが、その形が"す"の形を作っていたので、鳳翔は人差し指をその前に立てた。
 目を丸くする日向に、笑い掛けてやる。すると彼女も、脱力したように笑いだした。
「……今日は、私の部屋に来ませんか。伊勢の奴が気を利かせてくれたんです」
「ええ。お邪魔します」
 触れ合っていた体を解く。それからまたお互いの目を見つめて、どちらからともなく微笑み、二人は台所を出ていった。



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